2017年11月28にオープンした岩手県久慈市のラーメン店『津軽煮干中華蕎麦 サムライブギー』。“昭和ロック”をコンセプトにした派手な店構えは、道行く人の目を引く。外観だけではなく内観も思わず写真を撮りたくなる、まさにインスタ映えするラーメン店だ。「青森煮干中華蕎麦」を看板メニューに、地元産食材を使ったチャーシューなど、店主のこだわりが込められたその味の虜になる人は後を絶たない。期間限定メニューも人気を博しているそうだ。オープンから1年を経て、シャッター街とも言えるような久慈駅前でも人気を博している。今回は、店主の西村清(にしむら・きよし)さんに店舗オープンまでのストーリーを伺った。
料理への想いを、移住をきっかけに形にしていく
秋田県秋田市出身の西村さんは、日本文化に関わりたいという思いから、関東にある美術関連の大学に進学。それをきっかけに地元を離れた。大学では藍染を専攻していたそうだ。
そんな西村さんが料理に深い関心を覚えたのは、フランス料理を提供する居酒屋でのアルバイトがきっかけだ。そこで、お客さんが料理を中心に楽しそうな時を過ごしている様子を見て、料理の持つ力を感じて洋食の勉強を始める。
その後、西村さんは23歳の時に岩手県洋野町へ移住することになる。大学で出会い、その後結婚した夫人が洋野町の出身だった。移住することに抵抗は無かったのだろうか。
北三陸でワカメとソイを食べた時、その美味しさに感動したことを覚えています。北三陸には良い食材が沢山あると思いましたね。いつかは自分で飲食店をやるという夢を持っていましたし、移住に抵抗はありませんでした。
東日本大震災の影響で内陸部に引っ越した後も、夢を追う気持ちが変わることはなかった。色々な経験を積みたいと思っていた西村さんは、地元の様々な飲食店でそれぞれ1年ほど勤めている。1つの店で働き続けることにはあえてこだわらなかった。
しかし、転機が訪れる。30歳を迎えた頃、自分の料理技術に限界を感じたのだ。西村さんは一度飲食業を離れようと、焼き鳥の卸売などを行っている株式会社吉成食品に入社した。飲食店での経験を買われた西村さん。配属先は商品開発部。結局、「食」から離れることができなかった。だがそこで、工場長へ出世するほどの活躍を見せる。
夢は、新たな形での「挑戦」になった
居酒屋の定番メニューなど、広く親しまれている焼鳥。安定したニーズはあるものの、値段が固定化しているため事業として大きな成長は望めないという。30代も半ばに差し掛かり、西村さんは先代の社長が話していた「ラーメンと寿司は日本食の一文化として根付いているが、それに比べると焼き鳥は今一歩定着しきれていない」という言葉が頭の片隅にずっとあった。
工場長として日々仕事に取り組む中、西村さんは飲食店への想いがふつふつと湧き出してきた。そんな西村さんの思いを、同社社長の大坪氏はバックアップする。活躍してきた西村さんへの信頼を背景に、同社が経営する形で飲食店事業をスタートさせる運びとなった。
どんなメニューを提供するか、色々と思いを巡らしていた西村さん。同社は焼鳥の卸業者であれど、焼鳥店を営む訳にはいかない。地元の飲食店に商品を卸しているため、同社自らがお客様のライバルになる訳にはいかないのだ。そこで、西村さんは先代社長の言葉を思い出し、ラーメン店を営むことを考えた。
自分自身、外食している時には「これは何を使ってるのかな、どう調理しているのかな』と、考えてしまう癖があります。ですが、ラーメンだけは「美味しかったー」と純粋な思いで食べられるものでした。ラーメンは手軽に楽しく食べられるものだからこそ、食文化として根付く。そう思ったんですね。今も、その思いを大切にしています。
ラーメン店をオープンしようと決意した、西村さん。その足がかりとして、東北で人気のラーメン店『煮干結社 情熱ビリー』『煮干結社 麺や ゼットン』などを経営する「有限会社 NON’S CAFE GROUP(ノンズカフェグループ)」のラーメンショーのアルバイトに参加。そこで出会った代表取締役の植田倫安氏から、人生が変わるほどの衝撃を受けたという。
アルバイトはわずか3日間という期間でしたが、植田社長が貫くこだわりに感銘を受けました。自分が漠然と「いつか、こんな風に飲食店をやりたい」と思っていた光景が、目の前にあったんですね。まさに「これだ!」と思ったんです。「大人ってこんなに楽しく仕事出来るんだ!」と気づかされました。
西村さんは、NON’S CAFE GROUPに店舗のプロデュースを依頼。店舗の工事と数カ月の研修を経て、『津軽煮干中華蕎麦 サムライブギー』をオープンした。