岐阜県・西濃地方にある垂井町は人口約2万7千人。JR東海道本線が通り、西は天下分け目の古戦場で名高い関ケ原町、東は岐阜県第2の経済都市・大垣市に隣接している。春になると街中を流れる相川に沿って桜並木がピンク色に染まり、空にはたくさんの鯉のぼりが泳ぐ。
垂井町には環境問題やフェアトレードに取り組む『NPO法人 泉京(せんと)・垂井』があり、その副代表を務める神田浩史さんは2000年8月に京都市から垂井町に移住してきた。アフリカや東南アジアをはじめとする発展途上国でのODAやNGOに携わり、全国各地の環境問題や地域づくり、多文化共生など多くの課題に向き合う神田さんがなぜ、垂井に根を下ろすことになったのか。
『泉京・垂井』の拠点である『フェアトレード&地産地消みずのわ』に神田さんを訪ね、お話を伺った。
希望を感じていたはずのアフリカで
「垂井に来たのは偶然なんです。」
アフリカの民族衣装を思わせる軽やかなTシャツを着て現れた神田さんは、柔らかな関西弁でそう答える。当時、神田さんは故郷である京都に住んでいて、京阪神エリアを中心に大学の講師や国際会議の事務局で勤めていた。
かみさんは名古屋でフルタイムで働いていたので、通うのに便利な所に引っ越そうとあちこち探したんです。ぼくはどうしても京都新聞が読みたくて滋賀県内に住みたかったのですが(笑)。かみさんが名古屋まで通うのに遠すぎるというので断念したんです。大垣の駅前は高くて古い物件ばかり。そしたら不動産屋さんが「大垣から一つ西に行けば、駅前に良い物件がいくつかありますよ」と教えてくれたんです。それが垂井でした。
垂井町に住んでみると、JR駅がある利便性や、水が良く住環境も静かな垂井の魅力を実感。何よりも奥様がとても垂井を気に入ってくれたという。
タンザニアで味わった天国と地獄
垂井に移住するまで、神田さんは豊富な海外経験から国内より国外に目を向ける機会が多かったそうだ。京都大学農学部の卒業後は、東京の大手開発コンサルタント会社に就職。入社2年目にしてアフリカに渡った。神田さんは、なぜアフリカの地を選んだのだろうか。
ぼくはレゲエが大好きでね。高校時代からダイビングを始めたんですが、ダイバー仲間でレゲエが流行っていたんです。レゲエは1960年代後半にジャマイカで生まれた音楽ですが、ジャマイカの人々の多くは元々16世紀にアフリカから連れて来られた人たちの子孫。そこで、19世紀末にアフリカ帰還運動が起こり、それが半世紀以上経って音楽という形で昇華されたのがレゲエなんです。アフリカはレゲエにとって聖地なんですよ。
神田さんの青春時代は、学生運動の残滓がまだあちこちに残っていた。飲み屋に入り浸るうち、仲良くなった人たちにご馳走してもらいながら、学生運動を経験してきた彼らの武勇伝に耳を傾けていた。
一方では、当時勢いのあった新興宗教団体が世相に暗い影を落としていた。同世代の真面目な友人たちが次々にカルトな宗教に絡め捕られ、変貌していく姿を神田さんは目の当たりにする。
アフリカ行きには、ポジティブな思いを感じていました。貧しいアフリカに国際協力したいなんて気持ちはこれっぽっちもなく、アフリカに行けば自分にとって何らかの希望が見出せるのではないかと思ったのです。
閉塞的な状況を感じていた神田さんにとって、アフリカは希望の地だった。
『住民不在の政治』を推進する側に
神田さんの派遣先は東アフリカのタンザニア。アフリカ最高峰のキリマンジャロやアフリカ最大の湖であるビクトリア湖などがあり、パン・アフリカ主義のメッセージ性の強いレゲエも人気があって、神田さんにはまさにうってつけの国だった。タンザニアではどんな仕事に取り組んでいたのだろうか。
2000町歩もの水田を造成するための事前調査でした。2カ月間、毎日村中を調査して回っていました。村人たちと片言のスワヒリ語や英語で話をしながら、日本とは比べ物にならないくらい甘くておいしいパパイヤやマンゴーなど南国の果物を頂いて、すごく楽しかったですね。レゲエの盛んなお国柄でしたから、ラスタキャップというジャマイカの帽子をかぶって仕事をしていたら、「ジャパニラスタ!」と呼ばれました。ボブ・マーリーの歌を歌える日本人なんて初めて来たと言って、とても喜ばれました。
神田さんが住んでいたのは「モシ」というキリマンジャロの麓の街。そこでは週に一度、体育館がディスコになった。レゲエとリンガラというコンゴの音楽が交互にかかり、踊っているうちに親しくなった地元の人たちから頼まれて、英語とスワヒリ語と日本語のミックスでDJを担っていたという。
しかし、2ヵ月後に工事が始まった瞬間、楽園と感じていた土地は地獄に変わった。仲の良かった村人たちからは敵視され、針のむしろに座っているような日々が続いたという。なぜ、そんな事態が起きたのか。
彼らには水田工事の件は何も知らされていなかったんです。丹精込めて育てたトウモロコシ畑が何の説明もなく、いきなり壊されてしまうんですからそりゃ怒りますよね。ぼくのしてきたことは村人たちにとって結果的に裏切り行為と映ったんです。なんとかしてくれって村長さんに訴えたら、「タンザニアは社会主義国だから村人にそんなことを伝える必要はない。土地の使い方は国が決めることだから、おまえは国に言われた通り仕事をすればいい」の一点張りで、当時のぼくは引き下がるしか術がありませんでした。
タンザニアで感じた苦い思いは、その後の神田さんの原点となる。説明もなしに、村人たちが望まない開発を強硬に押し進めてしまう住民不在の政治の姿がそこにはあり、何より結果的に自分がそれを推進する側にいたという後悔の念が神田さんを苛んだ。
海外経験が、地域の農山漁村へ目を向けさせた
すぐに会社を辞めることもできず、神田さんはその後もナイジェリアやバングラデシュのODAに携わりながら、悶々とした思いを抱えていた。
政府主導で物事が決められてしまうので、どうしても地域の人たちがないがしろになってしまう。しかも、そこにコンサルが怪しいプランをいっぱいもって介在するわけですよね。毎日、仕事をしながらなんとか現状を変えられないものかと四苦八苦していました。
そんな中、神田さんは支援に訪れたNGO団体のメンバーと出会った。村人たちと共に寝起きしながら考え方を共有し、彼らが望むことを推進するNGOはこれまで関わってきたコンサルとは真逆の立場であり、メンバーの姿が神田さんの目にはキラキラと輝いてみえたという。
地元の人たちとの対話の重要性がよくわかりました。これまでぼくらはそういうことを全然やらずに、官僚とばかり話をしていたんです。
神田さんは6年間勤めた会社を辞めることを決意。その後は定職に就くことはせず、農繁期になるとあちこちで手伝いをしながら過ごしていた。ところがNGOの間で「若いのに海外経験豊富なやつがプラプラしている」と有名になり、東南アジアや中東の農山漁村の調査に行く仕事を請け負うようになった。
そうした経験を執筆したりしているうちに大学で講義を頼まれるようになり、海外で知り合ったNGOの人たちから頼まれて国際会議の手伝いなどもするようになる。NGOとの出会いを通して、神田さんは母国の農山漁村が抱える課題に目を向けるようになった。
ぼくが行った場所はどこも日本向けの産品を安く大量に作るために開発され、変容して行ったのです。そこで、仲良くなった現地のNGOの人達に指摘されました。「東南アジアからこんなに安い産品を大量に輸入して日本の農林漁業は大丈夫なのか?」と……ぼくはそこの視点がすごく弱かったんですね。それで急きょ故郷京都の桂川の上流域や琵琶湖周辺の集落の調査を自費で始めました。垂井にやって来たのはちょうどそんな時期だったんです。
所秀雄氏との出会いで垂井に根を下ろす
2000年8月、神田さん夫妻は垂井の住民になった。とはいえ通勤の利便性を考えてのことだったので、住み続けるつもりはなく、町政に関心もなかった。
その気持ちが大きく変わったのは3年ほど経った時のこと。垂井に住む人との出会いが神田さんの意識を変えた。
かみさんの友達が遊びに来てくれたので、垂井を案内しようと初めて街中に行ったんです。昔旅籠だった長浜屋という休憩所で、地元の「街角案内の会」の方から垂井の歴史について語ってもらったらすごくおもしろくて……ぼくも歴史は大好きなので思わず意気投合してしまいました。
以後、神田さんのアパートの郵便受けにはさまざまな住民運動に関するチラシが入るようになり、いささか閉口したものの、そのおかげで大垣市との広域合併の話が進んでいることを知った。
神田さんは、賛成・反対それぞれの主張を聞きに行こうと生まれたばかりのお子さんを連れ、夫婦で町の説明会に足しげく出かけた。
町の未来を左右する重要な説明会にもかかわらず、町の未来を担う若い人の姿がほとんどないことに驚きました。そんな中、ある日に開催された合併反対派の集会に行ったんです。そこで反対派の共同代表をされていたのが所秀雄さんでした。
故・所秀雄氏は垂井町岩手に生まれ、東京大学法学部を卒業後には農林省へ入省。退官後は株式会社ゲン・コーポレーションを設立。農業や環境問題などに取り組むほか、地域やそこに住む人々を主体としたさまざまな活動を展開した。2007年に逝去された後も、その教えは今も多くの人々に受け継がれている。
神田さんが、所氏の名前を初めて知ったのはNGOと関わり始めてまもなくのことだった。
当時、自国の農業を守るために食糧貿易の自由化に反対している人は多かったですが、所さんは世界の食糧事情を悪化させないためにも自由貿易化をしてはだめなんだという論考を書かれて深い感銘を受けました。まさかそのご本人に垂井でお会いできるとは思ってもいませんでした。
所氏との出会いは神田さんの運命を決定づけた。以後、所氏が病に倒れるまで毎月1回自宅に伺い、所氏が歩まれた人生について順々に聞くことができたという。
所さんとの出会いがあったから、垂井に根を下ろすことになったんです。それまではかみさんに、ずっと滋賀に引っ越そうと言っていました(笑)。所さんのご葬儀でお連れ合いさんから「所秀雄の人生をきちんと聞いているのはあなたしかいないから」と言われ、弔辞を読ませていただきました。その時、これでもうこの街から逃げるわけにはいかんようになったと思いましたね。
自治基本条例で地元住民主体のまちづくりを目指す
所氏は自治基本条例の原案を作って亡くなった。神田さんは所氏の遺志を引き継ぎ、住民主体のまちづくりを実現するために自ら手を挙げて策定委員会に入り、副委員長に就任する。
所さんの教えはとても具体的でわかりやすく、視野はほんとにグローバルやし、感銘を受けることだらけでした。所さんが考えられた自治基本条例を策定することが、自分の原体験であるタンザニアでの失敗を生かすことにもつながると思ったのです。
とことん公開と参加をモットーに、約1年半をかけて住民主体で策定された『垂井町まちづくり基本条例』は無事に施行。
呼ばれればどこへでも行って説明しましたが、集落によってすごく温度差がありましたね。おまえみたいな若造がなんでくるんやと怒られる所もあれば、男女全員参加で女性がとても元気な所もあり、その時、宮本常一の「忘れられた日本人」というのを思い出して、21世紀の岐阜の農村でもほんとにすばらしい住民主体の活動をされている人がいるんやと思い、それ以後、垂井のいろいろなまちづくりに首を突っ込むようになりました。
以前、垂井町は住民アンケートの結果、反対多数で合併を否決したことがある。その時の賛成・反対と二分されたしこりを溶かすためにみんなで一緒にNPO法人をつくろうということになり、「NPO法人泉京・垂井」を設立。神田さんは事務局長、後に副代表となり、NPO事業の責任者となった。
条例で「まちづくり協議会をつくる」と決めたことが動き出していて、ぼくは今自分が住んでいる東地区のまちづくり協議会の副会長をしており、もっと住民主体のまちづくりができないかと思い、防災事業を立ち上げています。住民全員が参加できるのは防災だと思うので。ワークショップでやっているのですが、良い考えがいっぱい出てきますね。
垂井は、昔ながらの地域と新興住宅街が混在しているためまちづくりへの温度差が大きく、新興住宅街では空き家と高齢化の問題が進みつつあるという。その課題解決のためにも、神田さんは様々な取り組みを行なっているそうだ。NPO法人泉京・垂井では、2011年から「フェアトレードデイ垂井」を開催するようになり、今年で第8回を数える。
神田さんが垂井に根を下ろしたことで、全国からいろいろな人物が垂井にやってくるようになった。神田さんは移住定住に関しても、「岐阜県森林文化アカデミー」と協働で「里山インキュベーターいびがわ」事業を実施。西濃地方への移住や起業を希望する人たちの支援を推進している。
「来年は現在10大学で行っている授業のコマを減らして、もっと垂井のことに注力したいと思っています。」
と、話す神田さん。かつてアフリカに希望を見出そうとして挫折した青年は今、垂井町で所氏の教えを胸に地域の人々と共に歩みながら『住民が主役になれるまちづくり』を目指して、日々取り組みを続けている。