百人一首 菅家(菅原道真) このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに
「天神さま」として祀られている菅原道真。これがなかったら太宰府天満宮や北野天満宮はなかった!? 道真による「祟り」についてまとめてみました。
「神童」「エリート」「失脚」菅原道真の人生
菅原道真は幼少の頃に「神童」と呼ばれる才を見せ、学者としての最高位となる「文章博士」にも就任。
天皇にも認められる政治的な手腕も発揮し、右大臣の任を与えられていました。しかし左大臣・藤原時平による策略にはまり、身に覚えのない罪によって太宰府に左遷。
57歳でその生涯を終えました。
「変死」「疫病」道真の死後に始まった異変
道真が亡くなってから5年後、道真が左遷となったはかりごとの一端を担った藤原菅根が変死。
翌年には疫病が広まり、首謀者であった藤原時平が39歳で急逝。時平の病床には、道真の姿が現れたという話もあります。
無実が証明されても続く関係者の死
藤原時平の急逝から4年後、次に亡くなったのが菅原道真の後釜で右大臣となった源光。
そしてその10年後には醍醐天皇の子で皇太子であった保明親王が21歳の若さで亡くなります。
醍醐天皇は、これを機に道真の罪を無実として取り消しましたが関係者の死はさらに続きます。
極め付けの落雷
保明親王が亡くなってからわずか2年後には保明親王と藤原時平の娘の間に生まれた慶頼王が5歳で急逝。
それから約5年後、まるで最後の仕上げとばかりに清涼殿に落雷があり、道真の左遷に関係していた藤原清貫、平希世などが即死。
醍醐天皇もこの事件にショックを受け3ヶ月後に亡くなっています。
「祟り」?それとも「偶然」?
左遷事件の関係者が次々と亡くなる過程で、これは菅原道真の祟りであるという噂が広まり、ついには無実が証明されて「天神さま」として祀られるまでになった菅原道真。
祟りと呼ばれる変死や事件は道真が亡くなってから約27年の間に起こっています。
参照元:太宰府天満宮, 天皇家と古代史十大事件 PHP研究所