江戸時代にはいると余暇を楽しむためスポーツが一般的に行われるようになったと言われています。中でも弓道は将軍や大名が特に勧め、大きな大会も開催されていたそうです。そんな中、江戸時代だけに大流行した「通し矢」という弓道に似たスポーツがありました。中でも特に面白い通り矢の種目、「大矢数(おおやかず)」についてまとめてみました。
大会の舞台は全長121.5mの廊下
(画像出典:京都パーフェクトガイド)
通り矢の舞台となったのは京都にある三十三間堂の廊下。端に的を置き、何本矢が通るかを競います。現代の弓道でも長い距離で60m、弓道というよりアーチェリーに近い!?天井も低いため、真っすぐ飛ばすのでさえ難しそう。
スタートは午後6時、24時間耐久レース!
午後6時に大会が開始され、翌日の日が暮れるまでが競技時間。夜通し矢を射続け、射通した矢の数を競いました。凄まじい精神力と体力と集中力と…なんかもうとにかくすごい競技です。
矢の総数13,053本 最後の記録保持者
大矢数の最後の記録保持者となったのは和佐大八郎という24歳の若者。それまで17年間破られなかった記録を大幅に塗り替え、新たなチャンピオン、そして最後のチャンピオンとなりました。和佐大八郎が射た矢の総数は13,053本、そのうち通した矢は8,133本でした。数えるのも大変そう…
和佐大八郎が大会で使用したと伝えられる2mの弓と、練習用の2.2mの弓、矢や矢じりは2013年、弓道場の完成を記念して和歌山県田辺市に寄贈されたそうです。これらの弓、弓を引く時の力(張力)が通常の弓の2倍!なんだそうです。
江戸にもつくられた通し矢の競技場
京都の三十三間堂にならい、江戸・浅草にも三十三間堂がつくられ、通し矢の大会が開催されました。
新撰組隊士も活躍!東大寺での通し矢
(画像出典:松波差平弓具店)絵巻の拡大図
奈良・東大寺の通し矢では、後の新撰組隊士・安藤早太郎が22歳の時11,500本中8,685本を射通し、当時の日本記録を樹立します。しかし、京都の三十三間堂で開催された大会で記録を出さなければなければ天下一とは認められず、残念ながら称号を勝ち取ることはできなかったそうです。今でも彼の武勇は絵巻として残されています。安藤早太郎は新撰組では副長助勤を勤めましたが池田屋事件での怪我がもとで事件から数ヶ月後に命を落としました。
最初から賛否両論だった通し矢
通し矢は「見せ物の類い」「射の本質を失う」と風当たりも強く、批判も多かったようです。実際に弓の名家でもあえて通し矢競技にはでなかったところもあるようで…そのせいか、明治以降はほとんど大会が行われることはなくなってしまったそう。
現在でも、「三十三間堂の通し矢」は形を変えて行われています。毎年1月に行われるこの行事では、1mの的を60mの距離から射抜くものです。全国の弓道の有段者が集まって開かれる大会のようです。