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日野富子は、なぜ悪女と呼ばれるのか。日本三大悪女「日野富子・北条政子・淀殿」

日野富子は、なぜ悪女と呼ばれるのか。日本三大悪女「日野富子・北条政子・淀殿」

    CATEGORY: AREA:京都府

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日本三大悪女と呼ばれる歴史上の人物、日野富子、北条政子、淀殿※。その中でも評価が真っ2つにわれると言っても過言ではないのが日野富子。

日野富子が 「悪女」 と呼ばれる元になったエピソードと、その反論についてまとめてみました。※他にも候補として挙げられる人物がいます。

日野富子とは?

1440年、室町幕府の足利将軍家と縁戚関係をもっていた名門・日野家に生まれる。16歳で室町幕府第8代将軍・足利義政の正室となり、1496年に 57 歳で死没。

悪女エピソード1: 夫の側室たちを追放

日野富子が19歳のときに待望の第1子が生まれるが、その日のうちに亡くなってしまうという出来事があったとき。

富子は側室のひとりであった今参局 (いままいりのつぼね)らが呪いをかけたせいとして、今参局と側室たちを追放してしまいます。

正室でありながら超複雑な結婚生活!

側室たちを追放するとはなんと自分勝手な、と思えるエピソードですが、彼女の結婚生活を知るとただの自分勝手だけではなさそう…

富子が足利義政のもとに嫁いだとき、義政は20歳。すでに側室との間に3人の子をもうけていました。ここまでは一夫多妻制の世ではよくありそうなことですが、側室のひとりであった今参局はもとは義政の乳母をつとめていたといわれる女性。

実の母よりも常に夫の近くにいて、幕府政治に介入する動きを見せるほどの勢力をもっていた人が側室にいるとは、富子にとっては大変複雑な結婚生活であったようです。

悪女エピソード2:応仁の乱での行動

応仁の乱は約11年にわたり続いた戦乱。その大きな要因として将軍跡継ぎの問題がありました。

当時、子供がいなかった義政は出家していた弟の義視を呼び戻して将軍後継者としていましたが、そのすぐ後に富子が息子・義尚を出産。本来の将軍後継者を推す派 (細川勝元) と、義政と富子の息子を将軍後継者として推す派 (山名宗全) とで対立し、応仁の乱へと発展していきました。

息子を将軍にという思いから山名宗全にバックアップを頼み込んだのが富子。長きに渡る戦乱のさなか、富子は関所をつくり関銭を徴収し、米相場や高利貸しからも賄賂を受け取っていたとされています。

親心、そして幕府のために

応仁の乱自体は、将軍後継者の問題以外にも幕府内での権力争い、さらにその他様々な問題が絡み争われたもの。子供を将軍へという思いは母としては当然とも言え、応仁の乱が長引いたのは後継者問題だけだとは言えないようです。

また、その手法には賛否あるものの、富子の財力はそのまま幕府の財政となっていたようです。

悪女エピソード3:莫大なお金を貯め込んだ

日野富子の悪女エピソードとして最も多い守銭奴という評価。実に数十億を蓄財していたと言われています。庶民をかえりみないこの行いは、多くの非難や妬みをかったようです。

芸術家肌の夫にも一因が!?

富子の夫である足利義政は東山文化を築いた功績を残す人物。

その華やかな文化とは裏腹に、当時庶民は飢饉により苦しんでいました。そのような中にあっても幕府の財政を無視し、邸宅である「花の御所」を造営するなど政治に関わりをもとうとしなかった義政。富子が政治に介入した原因もここにあると言われています。

また2人の子供・義尚も父とは折り合いが悪く、出家をしようとしたり妾をとりあったりしたこともあったそうです。

富子が莫大な資金を貯めていた本当の理由は定かではありませんが、火災で朝廷の御所が焼けた際には、修復のための莫大な費用を自費で出し、また蓄えていた巨万の富は晩年、彼女の手元には残っていなかったと言われています。

夫と息子を支え続けた人生を送るも両方に先立たれた富子

富子の息子・義尚は23歳という若さでこの世を去ります。その最後は酒に溺れ思い病にかかってのことでした。この時富子は49歳。その数年後には夫・義政も亡くなります。

2人の死後も、幕府の運営や人事に発言力をもち、幕府の屋台骨を支え続けたという富子。息子や夫との不仲を伝える話もあるようですが、その人生には、富と権力に固執した「悪女」とは別に、悲運にありながらも夫と息子の為に必死に生きた女性の姿も見えてきます。
参照元:びわこビジターズユーロ 近江の姫たち, 東京外国語大学 日野富子の生涯 -応仁記より-