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戦後70年の今だからこそ「ひめゆりの塔」へ行こう! – 沖縄県

戦後70年の今だからこそ「ひめゆりの塔」へ行こう! – 沖縄県

    CATEGORY: AREA:沖縄県

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「死ぬときはみんな一緒。生きるのも一緒。誰が一人離れても先生はイヤ、イヤよ?」1953年に公開された映画『ひめゆりの塔』で主演・津島恵子扮する宮城先生が、「生きたい」「死にたい」という生徒たちに対して言った言葉です。

戦後70年。今だからこそ私たちはひめゆりの塔へと行く必要があるのではないでしょうか?

ここでは沖縄本土戦の現場・ひめゆりの塔について紹介します。

ひめゆりの塔とは?

IMG_7780image by kunpei-kun.blog.so-net.ne.jp

ひめゆりの塔は沖縄県糸満市に位置する、かつて沖縄陸軍病院第三外科が置かれた防空壕跡に立つ慰霊碑を指します。

「塔」と名がつくにもかかわらず、高さは数十cmほどと小さいのは、戦後間もない物資難の時代に建てられというのが1つの理由で、もう1つの理由はアメリカ軍統治下に建てられたためでした。

1989年にはひめゆり平和祈念資料館が建てられています。

資料館内には第三外科壕を底からのアングルで見た原寸大ジオラマがあるほか、戦没した生徒や教員の写真が壁中を埋め尽くしており、見るものの心を突き刺します。

「ひめゆりの塔」で何があったか?

kiji1Imgimage by okitour.net

1945年6月19日朝、第三外科壕に潜んでいた96名の日本人は、アメリカ軍の黄燐手榴弾などの攻撃により87名が死亡。残りの8名のうち、3人は防空壕から脱出後銃殺されました。

この96名こそが「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる女子生徒及び教職員たちです。

彼女たちは沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した240名(ひめゆり学徒隊)に名を連ねていたのです。

全体でも生徒から123名、職員から13名の死者が出ており、ひめゆりの塔は彼女たちの霊を慰めるためのものですが、当時は県立首里高等女学校の「ずゐせん学徒隊」など、ほかの学徒隊も存在していました。そしてまた、彼女たちもひめゆり学徒隊と同じ運命を辿っています。

語り継がれる「ひめゆり」の悲劇

img_16image by blogs.yahoo.co.jp

冒頭でも書いたようにひめゆり学徒隊の悲劇は1953年に映画化されています。

しかしこの悲劇を物語にしたのはこの映画だけではありません。

石野径一郎の小説『ひめゆりの塔』や今日マチ子の漫画『COCOON』や、1953年のもの以外にも、『太平洋戦争と姫ゆり部隊』『ああひめゆりの塔』『ひめゆりの塔(1982)』『ひめゆりの塔(1995)』『ひめゆり』と何度も映画化されています。

私たちはあの悲劇を二度と起こさぬよう、あの出来事を後世に語り継がねばならない立場にあるのではないでしょうか。

悲劇から目をそらさないで

「どうして沖縄まで行ってそんな悲しい気持ちにならなきゃいけないんだ!」と思う人もいるかもしれません。

でも私たちは「ひめゆり」という悲しい過去から目をそらしてはいけないのです。

戦後70年という一つの節目だからこそ、ひめゆりの塔は行っておくべき沖縄のスポットです。