幕末動乱期の人物、吉田松陰。
有名な「松下村塾」で久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など、多数の門下生を抱えていた彼は、のちの明治維新で活躍する人物たちの育成に生涯を捧げました。
「諸君、狂いたまえ」という有名な言葉で、維新に関する人物たちに影響を与えた彼は、どのような人物だったのでしょうか。
今回は吉田松陰の生涯と、人物像についてご紹介いたします。
「狂い」を示す数々のエピソード
「狂愚」とは現実的な常識を無視し、自分の信念のみを信じて行動すること。
自らをその「狂愚」と称した松陰は、数々の破天荒なエピソードを残しています。
旅行のために脱藩
若き頃の松陰は友人と東北旅行を計画していたものの、所属していた長州藩からの許可がおりなかったため、通行手形を持たずに脱藩してしまいました。
旅行によって様々な人物との面会や、相馬大作事件の現場や日新館の見学を行った松陰。
当時の脱藩は、見つかれば死罪になることもある重罪で、江戸に帰った松陰は士籍剥奪・世禄没収の罰を受けました。
船に乗り込もうとすること2回
また西洋の先進文化に心を打たれていた松陰は、なんと、日米和親条約締結の為に再航したペリーの黒船に乗り込もうとしたこともあります。
当然追い返されてしまった松陰は奉行所に自首し、投獄されてしまいましたが、後に許されて出獄します。
実はこれ以前にもプチャーチンのロシア軍艦に乗り込む計画も立てていたようで、まさに自分の信念で動いていたことがよくわかるエピソードです。
松蔭が運営した松下村塾とは
黒船に乗り込んだ数年後、松下村塾を開塾し、門下生を募ります。
ここでの授業は「生きた学問」と言われ、特にルールらしいルールはなく、非常に自由な状態だったようです。
松陰が塾生に対して作文を課すこともあり、その添削を行うこともありましたが、基本的に塾生同士が議論を交わす授業形式も多々ありました。
上下関係の存在しない門下生たちは互いに意見を言い合い、それに松陰も加わって、活発な議論が行われていたようです。
また議論や作文だけではなく、登山や水泳など、実に多彩な活動な授業システムがとられていました。
30歳の若さで生涯を終えた吉田松陰
安政の大獄で連座させられた松陰は、享年30歳、斬首刑にてその生涯を終えました。
その最期は堂々としたもので、「自分のやったことで恥じることは無い」と、今わの際まで自分の信念を崩すことは無かったようです。
その「狂い」の教えは弟子たちに引き継がれ、後の明治維新で活躍した偉人たちを数多く輩出する結果となりました。
幕末という動乱の時代、「狂う」ことで常識を打ち破り、新たな時代を切り開く大切さを説いた松陰は、その時代を象徴した人物だったのかもしれません。
参照元:matome 幕末の奇人・吉田松陰から学ぶ「狂うことの大切さ」