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るろうに剣心のモデル河上彦斎の波瀾万丈すぎる人生をまとめてみました

るろうに剣心のモデル河上彦斎の波瀾万丈すぎる人生をまとめてみました

    CATEGORY: AREA:京都府

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身長150センチと小柄な体格で、一見女性にも見える容姿だったと伝わる河上彦斎(かわかみげんさい)。
人気漫画「るろうに剣心」の主人公・緋村剣心のモデルとなった彼は幕末4大人斬りの1人とされていますが、意外にも記録に残る人斬りは佐久間象山のみでした。

時勢に翻弄されながらも最後まで志を曲げなかった河上彦斎の波乱の人生をまとめてみました。


まじめに城で勤務する文武両道の青年だった彦斎

次男として生まれた彦斎は11歳で河上家に養子へ出され、藩校で学問と剣術を学びました。16歳になると城で主に雑用を請け負う坊主としてまじめに勤務しながら茶道やいけ花にも通じていました。(“坊主”というのはお坊さんではなく武士の階級で、茶坊主、掃除坊主というような役割に分かれていたようです。)

人生を変えた宮部鼎蔵との出会い

城に勤めていた間、藩に召し抱えられていた宮部鼎蔵と出会い、彦斎はその思想を勤王へと導かれます。(宮部鼎蔵は吉田松陰の東北旅行へも同行した勤王攘夷派の活動家です。)

彦斎が20歳の時にはペリーが来航、続いて安政の大獄が起こるなど時勢はますます彦斎の思想を尊王攘夷へと向けさせました。

ともに京へ

同じ肥後藩の志士の中には、脱藩し上京しようとしたものも多くいましたが彦斎はお金もなかったので、宮部らと連携しながら藩命で上京できるように奔走します。裏工作がうまくいき、朝廷から熊本藩へ京都警護の要請がきたことで彦斎も宮部らと供に上京することになりました。

警護兵の職を解かれ皆ばらばらに

京都に各地から続々と攘夷志士が集まる中、朝廷の警護兵としてまじめに勤めていた彦斎は、朝廷の三条実美からも厚い信頼を受けていたそうです。しかし八月十八日の政変により長州藩と三条実美ら公卿たちは京を追放されることになります。

肥後藩は全員に藩へ帰国するように命令を出し、彦斎たちは熊本へと帰らなければならない状況になりました。しかし志士たちの中には脱藩し、長州とともに行動しようとする人たちも出始めます。彦斎もまたそのひとりでした。



池田屋事件による宮部と同志たちの死

厳戒態勢がとられる京で宮部らは強硬手段にでようと京へ再び潜伏します。しかし会談中に新撰組により襲撃され宮部はここで命をおとしました。彦斎の同志でもあり、友人でもあった多くの人もこの時ともに命をおとしています。彦斎は長州でこれを聞き、すぐに京へむかいました。

人斬りとして名をはせた佐久間象山の暗殺

長州の志士と行動をともにしていたため、佐久間象山を師としていた吉田松陰の門下生が彦斎のまわりには数多くいました。しかし彦斎は同志を集め、佐久間象山の暗殺を決行します。(宮部の敵を討つために上京し、たまたまみかけた象山を斬った、長州追放や池田屋事件に関わっていた象山に始めから狙いをつけていた、など諸説あるようです。)

長州・桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らとともに戦った彦斎

暗殺から数日後、禁門の変でも彦斎は長州とともに戦います。禁門の変で破れた後も、高杉晋作の挙兵に賛同し戦いましたが(高杉晋作とは、途中で彼が開国論に転じたため罵倒し絶交したとも言われています。)

幕府軍として肥後藩が長州藩と戦ったことを聞き、桂小五郎や高杉晋作がとめるにも関わらず藩を説得するため、ひとり熊本へと帰ります。

江戸から明治へ 獄中で過ごした一年

熊本に帰った彦斎を待っていたのは脱藩の罪による投獄でした。投獄されていた期間は一年にも及び、その間に大政奉還、鳥羽・伏見の戦いを経て幕府は崩壊。

時代は明治へと移りました。新しい政府下になると、肥後藩は投獄していた勤王志士たちを藩の役人にとりたてるため出獄させます。彦斎もまたこの時出獄し、外交官へと登用されました。


描いていた理想とは違っていた現実

尊王攘夷の思想とともに彦斎が過去一緒に奔走してきた同志たちが名を連ねる新政府でしたが、この時すでに攘夷の思想は新政府には無く、着々と開国の準備が進められていました。彦斎はこれを聞き愕然とし、かつて行動をともにした桂小五郎や三条実美らと面会し議論するも新政府の方針は変わりません。勝海舟ら旧幕臣と連携しようと奮起しますがこれも実現することはありませんでした。

兵学校を設立・教育者として尽力するも2年で解体

藩命により鶴崎(現在の大分県)に赴いた彦斎は、有終館という兵学校を設立し兵士の教育に勤めました。有終館では海兵200人、陸兵100人が学んでいたとされています。自身が新設した学校で自らも教鞭をとりまさに新境地で活動しようとしていました。

かつての同志によってもたらされた有終館の解体

教育者として新たなスタートをきった彦斎のもとを長州藩士・大楽源太郎が訪ねてきたことで人生は大きく狂い始めます。大楽は暗殺の首謀者として追われる身でありながら明治政府の転覆を狙い新たなクーデターを画策するため彦斎に助けを求めにやってきました。有終館の兵をかしてほしいと頼みこみますが藩の兵を動かすことはできないと彦斎はこれを拒否、しかし見捨てることができず大楽とその仲間を匿いました。これが藩の知るところとなり彦斎は逮捕、学校もわずか2年で解体されることになりました。

最後まで信念を曲げずに逝った河上彦斎

逮捕された後、大楽を匿ったことで彦斎には様々な反政府事件の嫌疑がかけられました。裁判の判事をつとめたかつての同志が説得を試みましたがこれを真っ向から拒否し、最後まで尊王攘夷の思想を曲げなかったとされています。明治4年12月、彦斎は38歳で斬首。疑われた事件への関与はいずれも低く、明治政府より危険分子とみなされ疎まれたための斬首と言われています。

彦斎のように、時勢によって思想や志を変えていくことを拒否した志士たちが幕末には数多くいました。彼らの志の強さは先に命を落として逝った同志たちの想いに支えられていたのかもしれません。

“君がため 死ぬる骸に 草むさば 赤き心の 花や咲くらん” 河上彦斎 辞世の句