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ペリー浦賀に黒船来航と日本の印象まとめ

ペリー浦賀に黒船来航と日本の印象まとめ

    CATEGORY: AREA:神奈川県

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5月16日から5月18日までの3日間、下田にて「黒船祭」が開催されています。日米友好の証として昭和9年にスタートしたこのお祭りでは、記念式典や墓前祭が行われるほか、市内を進むパレードや下田港で行われる海上花火大会、「下田条約調印」を描く再現劇やコンサートなど、市内各所で華やかなイベントが繰り広げられます。

また、海上自衛隊より護衛艦「やまゆき」が下田港沖に停泊、航空自衛隊による祝賀飛行も予定されています。 下田黒船祭サイト

黒船来航って?

1853年、マシュー・ペリーが率いるアメリカ海軍艦隊の艦船4隻が日本に来航した事件。神奈川県横浜市久里浜へ来航したが砂浜で停泊できなかった為、幕府によって浦賀に誘導されたそうです。一般的にこの事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいます。

そもそも、ペリーってどんな人?

Matthew_Calbraith_Perry (画像出典:Wikipediaマシューペリー)

アメリカ海軍の軍人で、エリー湖の戦いにおけるアメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリーの弟。蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、蒸気船海軍の父とたたえられた。また海軍教育の先駆者とされている。63歳で死去。(出典:Wikipediaマシュー・ペリー)

ペリーと日本開国の歴史

1852年11月に東インド艦隊司令官に就任、日本開国に向けて交渉依頼する大統領の親書を手渡すよう指令を受ける。

1853年5月末、琉球王国へ寄港。首里城への訪問を打診したが琉球王国側に拒否される。しかしこれを無視して武装した兵員を率い上陸、市内から首里城まで進軍。(この時王国側は武器の持ち込みと兵士の入城を拒否した上でペリーをもてなしたそうですが、実際には慣例のもてなしのみで暗黙の内にペリーへの拒否を示していたそうです。ちなみに当時の琉球王国は薩摩藩の影響下にありました。6月には小笠原諸島の探索も行っています。)

1853年7月浦賀に入港、大統領からの新書などを手渡したが幕府の回答は「将軍が病気であって決定できない、1年の猶予を要求する」というものででした。1年後の再来航をつげ数日後には江戸を離れています。(ペリー出航からわずか10日後に将軍家慶が死去し、病弱な家定が次の将軍として国政を担うことに…家定はもともと悪かった体調が将軍就任以後さらに悪化してしまいます。)

1854年2月、琉球王国を経由し再び浦賀へ来航。(将軍の死を知り、国政の混乱の隙を突いてあえて半年で決断を迫ったそうです。この時お互いに敵対する態度はとらず、アメリカ側は船上で日本側の使いに対しフランス料理をふるまって歓迎、日本側もアメリカ側に本膳料理の昼食を用意しもてなしています。)

6月には日米和親条約を締結し、帰りに寄港した琉球王国で通商条約を締結させています。これにより、日本は200年以上続いた「鎖国」から解かれることになりました。

日本人が見たペリーは、ペルリ(彼理)?

1853Yokohama_01画像出典: Wikipedia黒船来航

ペリーの来航は日本の人々を驚愕と混乱に陥れたと言われます。当時の日本人が描いた数々の絵が残されています。

“太平の 眠りを覚ます 上喜撰(お茶の名前を蒸気船にかけた)
たった四盃(船四隻にかけた)で 夜も寝られず”

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『島津家文書』 東大史料編纂所蔵(国宝)

(私たちがよく見るペリーの写真とも似ています)

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『黒船来航絵巻』 神奈川県立博物館蔵

(髪型と顔色で少し老けて見える気が。日本人にも見えなくもない…)

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『合同舶入相秘話』 福井市郷土歴史博物館蔵

(さ、西郷さん…?かと思いました)

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「惣大将ヘロリ真図」 黒船館蔵

(もはや誰だか分かりませんが…目の色や鼻の高さなど日本人と違うところが特に強調されていますね。これと似た構図で目が吊り上がった天狗のような怖い絵もありました…)

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提督ペルリ肖像「異国落葉籠」1854(嘉永7)年 江戸東京博物館蔵

(晩年は髭を着用していたそうです)

画像出典:http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/gakki/Perry/Perry.html

ペリーが残した名言

ペリーは日本を観察し遠征記(「ペルリ提督日本遠征記」/岩波文庫)にこのような言葉を記しています。

『人民の発明力をもっと自由に発達させるならば 日本人は最も成功している工業国民にいつまでも劣ってはいないことだろう』

『日本人が一度文明世界の過去および現在の技能を所有したならば、 強力な競争者として将来の機械工業の成功を目指す競争者に加わるだろう』

当時彼が見た日本は、文明や技術の発展は未熟ながら輝かしい未来を感じさせる何かがあったのでしょう。