ライネフェルデ市の都市再生計画の歩みについて(2)

ライネフェルデの都市再生レポート。第二回はライネフェルデ市が就労の場と居住の場一体型の都市として発展していった経緯を紹介する。


2、発展期

第二次世界大戦以前、ライネフェルデは、ケルン・ベルリン間の帝国道の開設や、鉄道の敷設により、その地理的条件からドイツ東西の陸上輸送網の拠点の一つとなっていた。
戦後の分割統治を経て、1949年に旧東ドイツが建国されるに至り、これらの陸上輸送網は封鎖され、ライネフェルデは旧東ドイツに属することとなった。国境線は街の西方約20㎞に引かれ、ライネフェルデは旧西ドイツとの国境の町となった。

1990年の東西ドイツ統一まで、東西ドイツ間の交流は閉ざされることとなった。人口わずか2,600人ほどの村であったライネフェルデは、1950年代末期以降、国策により、地方経済の発展を促進するため、国営のセメント工場・テキスタイル工場が建設されたことに伴い、急速に発展することとなった。
これに対応するためのライネフェルデの都市設計は、就労の場と居住の場を一体とする基本方針のもとに実施された。増加した人口を吸収すべく、旧市街地の南部に開発されたのが、パネル工法(プレハブ)で建設された集合住宅群である

東西ドイツ統一直前の1989年には、その総戸数は2,500戸に達し、居住人口は14,000人にのぼった。市の総人口が16,500人であったことをみれば、ライネフェルデの都市構造は、日本的な言表を用いるとすれば、典型的な「企業城下町」であったということも出来るだろう。
しかし、住環境と就労環境が密接に結びついたライネフェルデ市の都市経営は、1990年の東西ドイツ統一により、急激な変化に見舞われることになる

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