「本能寺の変」のその後。織田信長の死後、子供たちの行く末は

shutterstock_281283728本能寺 Attila JANDI / Shutterstock.com

歴史的な人物として重要なポジションに君臨する織田信長。

彼の生涯は広く知れ渡っていますが、意外にその子どもたちの生涯が明らかにされることはあまりありません。

そんな信長の子どもたちについてまとめてみました。

 本能寺の変で明智軍の前に倒れた長男・織田信忠

信長の浅井長政攻めのときに初陣し、各地で戦功をあげます。

本能寺の変前は室町薬師寺の妙覚寺に入りましたが、事件発生後、光秀軍に対して奮闘します。

明智光秀の襲撃から守るには妙覚寺で適さないとして、隣の二条御所に移り駆け付けた馬廻衆らを率いて戦いましたが、明智鉄砲隊に囲まれ自刃しました。

 当主になるも領地没収で出家した次男・織田信雄

本能寺の変前は、北畠具房の養子に入っていました。

その後は北畠家の当主になりますが、本能寺の変による信長の死後、一時的に織田家の当主に。

ただしその後は秀吉に領地を没収されて財産を失ってしまい、出家して晩年は僧侶として暮らし、その生涯を終えました。

 父の仇を討つも兄に攻められ自刃した三男・織田信孝

信長の北伊勢攻略ののち神戸城主・神戸具盛の養子となったので神戸信孝ともいいます。

長島一向一揆攻めなどに戦功をあげ、本能寺の変後は羽柴秀吉と共に山崎の戦いで光秀を破りました。

異母兄の信雄と織田家後継者の地位を争うこととなり、美濃国を与えられ岐阜城に入ります。

柴田勝家と組んで秀吉と敵対しますが、勝家は秀吉に攻められ敗死。

その後は兄・信雄に攻められ降伏し、内海の大御堂寺の安養院で自刃しました。

 豊富秀吉の養子・四男・羽柴秀勝

於次丸(おつぎまる)といい、豊臣秀吉の養子となり、秀吉と共に備前・備中に進行。

本能寺の変後は大徳寺で行われた葬儀で、神輿の後轅(うしろながえ)を担ぎます。

清洲会議ののち、光秀の旧領・丹波亀山城に入り、丹波一国を支配しました。

賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いには秀吉と共に参陣し、秀吉が関白になると従三位中納言に任官しましたが、同年病により、生涯を終えました。

 本能寺の変で亡くなった五男・織田勝長

岩村城主の未亡人である、おつやの方の養子に入っていました。

その後は犬山城主となりましたが、本能寺の変の際、二条御所で死亡しています。

 本能寺の変を生き延びた六男・織田信秀

本能寺の変で命を落とすことはなく、後に近江の地を与えられました。

晩年は剃髪し、僧侶として生涯を過ごしたようです。

秀吉に仕え羽柴藤十郎を名乗った七男・ 織田信高

本能寺の変で信長死亡後、氏家行広に預けられました。

その後は秀吉に仕えて羽柴藤十郎を名乗りますが、その後の詳細は不明です。

秀吉に仕え羽柴武蔵守を名乗った八男・織田信吉

本能寺の変後、秀吉に仕えて羽柴武蔵守を名乗りました。

晩年は剃髪し、京都で生涯を終えています。

 関ヶ原の戦いで秀吉と敵対し庶民となった九男・織田信貞

本能寺の変後、秀吉の馬廻となって近江国を治めています。

関ヶ原の戦いでは西軍(石田三成側)にいたために、敗北後は身分をはく奪され、庶民になりました。

 詳細は不明!? 十男・織田信好

本能寺の変後は秀吉に引き取られ、家臣として仕えたようです。

茶人でもありましたが、詳しい情報は不明です。

織田家の息子たちにとってその後の道を大きく変えた「本能寺の変」。織田信長の死後、秀吉に仕えた人、秀吉と敵対した人と、兄弟間でも異なる道を進んでいます。

また、織田信長には庶長子 (正式な婚姻関係にない両親から生まれた子供) として織田信正という人物がいます。

この人物は本能寺の変を生き延び、その後僧侶となったとされていますが、情報が少なく存在自体が不明とされています。
参照元:matome 意外と知らない!?織田信長の息子たち!本能寺の変後の生涯

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