“寺田屋事件”といえば、坂本龍馬が京都・寺田屋にて襲撃を受けた事件として世に広く知られていますが、それから4年前、同じく寺田屋で起こったもうひとつの事件がありました。
島津久光の京都入りが起因となった寺田屋事件
1862年に起こった寺田屋事件の発端は、事件から1週間前に薩摩藩藩主・島津忠義の父、島津久光が1000人の兵を率いて京に入ったことに始まります。
藩の実権を握る島津久光は、藩主代理として京へ入り、朝廷の権威の下に幕府の政治を改革する「公武合体」を実現するための交渉を行い、朝廷幹部を説得。
孝明天皇からも内々に浪士の鎮圧の名を受けるまでに至りました。
志は同じでも別れてしまった道
当時の薩摩藩は諸外国を打つ「攘夷派」。
しかしその道は、朝廷と幕府の結びつきを強くし、幕府主導で敵を打つ「公武合体派」と、幕府ではなく朝廷の下に敵を打つ「尊皇攘夷派」に分かれていました。
「攘夷」という同じ志を持ちながらその実現への道により2分された薩摩藩。京都で島津久光のニュースを聞いた尊皇攘夷派の志士たちにも衝撃が走ります。
薩摩藩同士の斬り合いで幕を閉じた事件
尊皇攘夷を果たす為にも幕府を倒そうとする尊皇攘夷の過激派たちは、久光を無理にでも倒幕へ向かわせる為、幕府と協調路線をとる関白や京都所司代の襲撃を計画。
寺田屋には計画実行の為、40人にのぼる志士たちが集まりました。この計画を知った久光は寺田屋に兵を派遣。
一部の志士たちは説得に応じて投降しましたが、結果6人が死亡、2名が重傷を負った上、後に切腹。騒動は幕を閉じました。
事件後に起きたもうひとつの悲劇
画像出典:日向市観光協会
事件後、一部の投降した志士は各藩への引き渡しの処置がとられました。
引き渡し先のない浪人たちの運命は薩摩藩が握ることに。彼らは薩摩へ向かう海上、宮崎県日向市付近で惨殺され、その遺体は海へ打ち捨てられるという最期を迎えました。
惨殺された志士の中には、後の明治天皇の教育係であった田中河内介や、新撰組発足にも深く関わった清河八郎の同士・北有馬太郎の弟である中村主計も含まれています。
縁もゆかりもない土地で最期を迎えた志士たち。遺体が打ち上がった3名は地元の民により手厚く葬られ、宮崎県日向市細島には今もその墓が残っています。
参照元:産経WEST 歴史事件簿 寺田屋事件