前回記事で、秋田県民歌3・4番の謎に迫りました。
今回は「秋田県民歌は80年以上もの間、本当に県民に愛されてきたのか」という、根本を揺るがすテーマ。筆者がなぜそのような疑問を抱いたのかというと、「県民手帳に秋田県民歌が掲載されていない時代があった」という話を耳にしたからです。
なぜ、そのようなことが起こったのか。まずはそこからご説明します。
1度消えかけた、秋田県民歌
その背景には、「県民の歌」の存在があります。
「県民の歌」の存在
昭和34年、新たに制定されたのが「県民の歌」。いかにも戦後の県民歌・市町村歌といった趣きの、マーチ調の明るい歌です。
当時の秋田県広報紙「あきた」(昭和42年1月1日発行)にその制定理由が掲載されています。
この県民の歌制定理由については、私たちの郷土秋田県の発展をのぞみ、県民がふだんの生活や集団の中で明るく軽い気持で歌える『県民の歌』をつくり県内に豊かでうるおいのある気分をもりたてようとしたものである。
当時を知る世代にお話を伺ったところ、この県民の歌は学校でもよく歌われて広く浸透していったとのこと。アップテンポの曲調は子どもや若者に好まれ、親しまれたようです。
制定当時の昭和34年は新しい県庁舎ができあがったばかりで、さらに2年後には国体を控えていました。秋田にも新しい県民歌を・・・という発想に至るのは、とても自然なことだったのです。
これ以降、県民手帳には「県民の歌」のみが記載されるようになり、もともとの県民歌であるはずの「秋田県民歌」は他の都道府県同様、失われるかにみえました。
秋田県民歌、復活の兆し
昭和39年、この流れに待ったをかけた人がいました。当時の秋田大学教育学部教授小野崎晋三です。彼は昭和39年1月1日発行の同紙に、「『秋田県民歌』の復活を提唱する」というタイトルで寄稿しました。以下に引用します。
作詞作曲者ともに県人であり、とくに作曲者成田為三氏は本邦作曲界の泰斗であり、この曲の旋律や伴奏の優美なこと、作曲技法の優れたことなどまさに天下無類の名曲と思う。
県民歌に問題があるとすれば第三章の歌詞であるが、秋田が生んだ国学者平田、佐藤大人を誇っている点で、もし現代風の感覚でないとか、理解しかねるならば、歌詞の改作を断行し、再生県民歌として永久に県人に歌われるよう伝えたいものである。
彼もやはり3番の歌詞がもつ問題点に言及してはいますが、ならば改作をしてでも復活させ、歌い継ぐべきとしています。
これが、秋田県民歌に再び光を当てるきっかけとなります。
「大いなる秋田」が新旧をつなぐ
さて、この「大いなる秋田」ならばなじみがある、という方も多いのではないでしょうか。
これは昭和43年、明治100年を記念してつくられた交響曲で、第4楽章まであります。秋田の郷土歌を1つに集約した荘厳な曲です。この第3楽章には秋田県民歌が、第4楽章には県民の歌がそれぞれ入っています。県はこの「大いなる秋田」誕生より、県内の各所で毎年演奏会を開いてその浸透に尽力しました。
この素晴らしい交響曲誕生から13年後、原曲作曲者である成田にクローズアップして、「成田為三顕彰の集い」が旧森吉町(現北秋田市)にて行われました。
そしてこの翌年、秋田県民歌は県民の歌と並んで、県民手帳に再び掲載されるようになったのです。
愛され続ける「秋田県民歌」
時代と共に秋田県民歌が忘れ去られなかったのは、広報で声をあげた小野崎氏はじめ、この歌を変わらず愛する多くの県民が存在したからです。
現在では県内多数の中学校で郷土教育の一環として「大いなる秋田」の演奏や合唱が取り入れられているため、新旧の県民歌のどちらも歌えるという県民が大多数を占めています。
また、秋田が誇るシンガーソングライター津雲優(故)作曲の「いざないの街」には秋田県民歌が挿入されています。
この「いざないの街」は大曲の花火のエンディングの際に必ずかけられ、秋田県民歌を県内外に広く浸透させることに大きく貢献しました。筆者が県民歌を覚えるきっかけともなった曲です。
最近の話でいうと、秋田県民歌は、プロバスケットボールチーム「秋田ノーザンハピネッツ」のホームゲーム前に選手とブースターによって歌われています。
さて、3回にわたって「秋田県民歌」をテーマに連載を行ってきました。もともと1記事にまとめるつもりだったのですが、愛があふれた結果このような事態となりました。
この記事をきっかけに、少しでも秋田県民歌に興味をもっていただけましたら幸いです。

帰秋を切望しながらも都内で働く社会人3年目。大曲の花火について語らせると小一時間はとまらない。最近の趣味は秋田の母がつくった作品の広報・売子。1990年生まれ。秋田市出身。Twitter:@fmk424