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戦国時代、毛利元就が厳島の戦い。掟の大切さを知っていた武将たち

戦国時代、毛利元就が厳島の戦い。掟の大切さを知っていた武将たち

    CATEGORY: AREA:滋賀県

大軍隊を率いて敵と戦う武将。軍の統率と命令の徹底は戦を勝ち抜く為の重要な要素でした。戦場には常に掟があり軍を動かしていました。どのような軍規と罰則があったのか、まとめてみました。

家の存続がかかっていた!戦国時代の重い掟

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(画像出典:米沢上杉まつり

戦国時代、毛利元就が厳島の戦いで定めていた軍規を見てみると...

1.戦場において大将の命令に背いたものは不忠義者とみなす

2.敵地に深く入り、少しでも敵の姿を見た途端に引き返すものは改易とする

3.敵を追いつめたときであっても勝手な行動をしたものは許されない

4.味方が危機に瀕しているときに退却したものは、一番先に退却したものを改易とする

5.大将、戦奉行の命令に背いたものはどのような忠節があっても不忠とみなす

「改易」とは屋敷や領地の没収。家の取り潰しを意味します。命令は絶対、そして逃げてはいけない、というのがはっきりと記されています。では、軍規を破ったものにはどのような運命が待っていたのでしょうか!?

妥当?重い?戦国時代の処罰いろいろ

戦国大名、織田信長と豊臣秀吉が課した処罰が記録に残っています。

報告義務を怠った佐久間信盛 → 高野山へ追放

病で合戦を休んだ片岡氏 → 土地の1/4を没収

病で城へ出仕しなかった多賀谷重経 → 黄金1000枚の罰金

戦で味方の救援にいかなかった尾藤知宣 土地、財産没収

基準は分かりませんが戦での振る舞いがとても重かったというのは分かりますね!

(参考:図解 戦国合戦がよくわかる本 PHP研究所)

命がかかっていた、新撰組の局中法度

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新撰組といえば局中法度(きょくちゅうはっと)。新撰組に年齢や身分の入隊の規定はなく、志ひとつで隊士を募集していました。そんな烏合の衆をまとめる為にできたといわれる規律が局中法度。実際には“5か条ではなく4か条であった”、“局中法度という言葉はなかった”とも言われています。

1.士道に背くまじきこと

2.局を脱するを許さず

3.勝手に金策を致すことを許さず

4.勝手に訴訟を取り扱うことを許さず

5.私闘を許さず

シンプルな規律ですが1が漠然としていて一番怖いですね。笑 大将の判断は絶対というのがここでも見えてきます。局中法度違反したものに待っていたのは、切腹や斬首と大変厳しいものでした。

新撰組が禁門の変で戦った際にはこれとは別に「軍中法度」と言われる10か条が定められていたようです。この軍中法度は戦国時代の軍規のように、より戦を闘う上での規律となっています。

強い忠義があった、高い志があった、それでも忠義だけでは闘えず、志だけではまとまらない。いかにして人々をまとめるか、ビジネスにおいても永遠のテーマのような気がします!