織田信長が明智光秀により本能寺で自害へと追い込まれた「本能寺の変」。あまりにも有名なこの事件は戦国史において最も謎の多い事件とされ、現在でも様々な論議がなされています。本能寺の変に関係した人々にまつわる謎をまとめてみました。
本能寺の変は光秀ひとりによるものではなかった!?
なぜ光秀がクーデターを起こしたのか…未だにはっきりとした定説はありません。
よく見られるのは、“信長への怨恨説”、“天下取りの野望説”、“四国攻め回避説”などがあります。その中でもミステリアスな雰囲気があるのが「黒幕説」!
徳川家康、豊臣秀吉、黒田官兵衛(黒田孝高)、濃姫(信長の正室)近しい人たちの名前があげられています。光秀&家康共謀というのもありました。更に、朝廷、イエズス会、堺の豪商、信長に将軍の座を追われた足利義昭、そして信長が統治しようとしていた地域の権力者たち。
信長に敵がいすぎて際限なく名前があげられているような…そんな印象もあります。
光秀は生き延びていた!?
江戸幕府が開かれた後、家康の近くには“南光坊天海”という名の僧がいました。これが明智光秀であり、彼は秀吉には討たれずに生き延びて家康に仕えていたという説があります。
天海は南光坊という名で関ヶ原の合戦にも描かれており、彼にまつわる様々なエピソードから天海=明智光秀という図式が見えてくるようです!この方、なんと108歳まで生きたそう。平均寿命が30代という時代なので、別の意味でもすごいです…
実際にこの説は支持され、テレビ番組で天海と光秀の筆跡鑑定も行われました。その結果、同一人物、または同一人物でなくとも近しい人だということで、天海=明智秀満(光秀の娘婿)という説や、天海=光秀・秀満2代説もあるようです。
信長も生きていた!?
本能寺をくまなく探しても、信長の遺体は最後まで見つかることはありませんでした。遺体が見つからなかったことから、信長生存説も生まれているようです。イエズス会の手引きで海外へ逃亡した、薩摩に逃げ落ちた(が、ひどい怪我ですぐに亡くなった)、秀吉に見つかって大阪城に幽閉された、などがあります。
遺体が見つからなかった点については、本能寺には当時火薬が多く保管されており、信長は自ら爆死を選んだという説もあるようです。
本能寺の変、真の目的は…信長VS家康
信長は家康に本能寺に来るよう命じ、秀光には本能寺にて家康を討つように命じていたという説もあります。
実際には、家康暗殺に反対した光秀が家康と通じ、この計画を逆手にとって信長を討ったといいます。またこの際、実は光秀はその場におらず、光秀の家臣・齋藤利三が実行犯とする説もありました!
発見された新資料
本能寺の変において明智光秀挙兵の動機としてあげられる「四国攻め回避説」。2014年6月に新たに見つかった資料でこの“四国攻め回避”が真実味をおびてきました。
四国攻め回避とは
当時、四国では同盟関係にあった元親が信長によって統一を許されていましたが、信長は急に方針を転換。四国の一部の領土しか認めないと言いわたします。元親と信長はこれにより対立。信長は四国に向けて討伐の兵を差し向けることを決めました。この元親と信長の同盟を取り持っていたのが光秀で、信長の四国討伐をとめようとして本能寺の変を起こしたというのが通説です。
見つかった手紙に書かれていた真実
今回見つかった資料は、元親が光秀の家臣・齋藤利三(元親と利三は姻戚関係にあります)にあてた手紙で、元親が四国統一を辞め、信長の命に従うという内容が書かれています。
この手紙に記された日付は5月21日、しかしその2週間ほど前にはすでに四国征伐に向けての準備が始まっていました。この手紙から12日後の6月2日に本能寺の変は起こります。
まとめ 最大の謎は犯人
本能寺の変の謎は、やはり「信長を討ったのは誰か」という点のようです。この答えはどうしても推測の域をでませんが、実は大人数で結託していた…なんて恐ろしいこともあったりするのでしょうか!