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父親は、明智光秀?ヨーロッパ戯曲のモデルとなった戦国の姫・細川ガラシャ

父親は、明智光秀?ヨーロッパ戯曲のモデルとなった戦国の姫・細川ガラシャ

    CATEGORY:観光 AREA:京都府

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天下分け目の合戦、関ヶ原の戦いから約100年後、日本から遠く離れたウィーンで1曲の戯曲が演じられました。

マリー・アントワネットも魅了されたと言われるその戯曲のモデルとなったのは、戦国の世に生きた一人の姫・細川ガラシャでした。今回はそんな姫の壮絶な人生のお話です。

父親はなんとあの有名人「明智光秀」

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1563年、明智光秀のもとに三女・たまが誕生します。

たまは織田信長の勧めで15歳の時に細川忠興(ほそかわただおき)のもとへと嫁ぎました。翌年には長女が、翌々年には長男が生まれます。しかし長男が生まれてわずか2年後、彼女の人生はある事件をきっかけに一変することになります。
明智光秀と言えば…そう、織田信長を討った歴史上の大事件、「本能寺の変」です。

2年間の山奥での幽閉生活

本能寺の変により逆臣の娘となったガラシャは、細川家によって丹後の山奥にある里へ幽閉されることになりました。

子供とも引き離され、わずかな共を伴った幽閉生活は2年間にも及びます

。やがて時が流れ秀吉の時代となってから幽閉が解かれ、大阪にある細川屋敷で夫や子供たちと再び暮らすことになりました。幽閉が解かれたその年には次男も生まれています。

宗教に救いを求めたガラシャ

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ガラシャの父、母、姉、兄たちはともに本能寺の変によって命を落としています。謀反を起こした父のこと、そして夫のこと、2年の幽閉生活の中でガラシャは苦悶します。

幽閉を解かれた後も、次男が病気がちなことからガラシャは心を痛め、自身も忠興の監視下で思うように外出できなかったと言われます。また、その忠興はガラシャが幽閉されていた2年の間に側室を持ち、幽閉前の幸せな生活とは一変、ガラシャが苦悩を重ねる日々が続きました。

元々は禅宗を信仰していたガラシャですが、聞き及んだキリスト教の話をきっかけに心の平安を、救いをキリスト教へと求めます。夫の不在時に密かに教会を訪ね、後に洗礼を受けガラシャ(Gratia)の名を授かります。ガラシャが洗礼を受けたのはキリスト教宣教を禁じる「バテレン追放令」が発布された直後でした。この時ガラシャ24歳、美しく聡明な彼女にはカリスマ性があり、周囲の家臣をも次々と改宗へ導きました。

キリスト教徒として迎えた最後の時

豊臣秀吉の死後、再び天下は乱れます。徳川家康と石田三成の対立に、ガラシャは再び時代の荒波へとのまれていきます。洗礼を受けてから13年の月日が流れていました。

徳川家康の上杉討伐へ夫・忠興が向かった際、石田三成が大阪城下に屋敷を構える家康派の大名から人質をとることを考え、ガラシャのいる細川屋敷へ軍勢が差し向けられます。光成はガラシャに人質になるよう強要しますがガラシャはこれを拒否。出立時に夫に言いつけられていたとおり、自ら死を選びます。キリスト教徒であった彼女は自殺することができなかった為、自刃ではなく屋敷のものの介錯によって亡くなったと言われています。

“ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ” ガラシャはここに38歳の生涯を閉じました。

戯曲中で描かれるガラシャの姿

ガラシャがキリスト教の洗礼を受け改宗するまでの様子は当時日本に滞在中の宣教師たちによって本国へもたらされたと言われます。彼らが残した「日本の教会史 〜丹後の女王の改宗とキリスト信仰〜」の中にガラシャの姿があり、これに基づいて脚本が書かれたようです。戯曲の名は「強き女…またの名を、丹後王国の女王グラツィア」(Mulier fortis, cuius pretium de ultimis finibus, sive Gratia regni Tango Regina)。ガラシャは作中で幾多の苦難に耐えながら最後まで信仰を貫いた誉れ高い女性として描かれ、彼女の死は殉教(自らの信仰のために命を断つこと)となっています。

夫・忠興は良夫?悪夫?

ガラシャが亡くなった後すぐに関ヶ原の戦いがあり、時代は大きく変わりました。

父の存在に苦しめられた彼女が救いを求め苦悩したように、彼女の夫・忠興もまた苦しんだことでしょう。忠興に対しては、ガラシャに対してひどい仕打ちだったと感じる人と、ガラシャを心から愛していたと感じる人ときっぱり分かれるようです!

戦国の時代は家のためならば妻子供も政治の駒として利用されるのが当たり前。

ほとぼりが冷めるまで幽閉という形でガラシャが生きながらえたのは忠興の働きかけがあってこそだと思いますが、ガラシャはキリスト教徒となった後、離縁を考えていたという話もあります…(この離縁については、忠興が原因とする説、信仰にもっと専念したいからという説、と様々のようです)忠興は83歳まで生きました。

本能寺の変、幽閉、キリスト教との出会い、そして迫る時代の波。まさに時勢に翻弄された夫婦の形を垣間みた気がします!ガラシャが幸せな新婚生活を過ごした勝竜寺城には、2人の石碑がたっています。長岡京市観光協会 勝竜寺時城公園