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幕末志士の恋の話〜近藤勇、土方歳三、新撰組編〜

幕末志士の恋の話〜近藤勇、土方歳三、新撰組編〜

    CATEGORY: AREA:京都府

新撰組は屯所が島原に近く、また当時の金回りも良かった為島原に通うことが多かったようです。一般隊士を交えた組を上げての祝宴も島原にて行われたそう。そんな中生まれたカップルをまとめてみました。

近藤勇と深雪太夫(みゆきたゆう)

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(画像出典: Wikipedia 近藤勇)

言わずと知れた新撰組局長、近藤勇のお相手は大阪新町「折屋」の芸妓さん、深雪太夫。背が高く美人だったそうです。勇は彼女を身請けし(身代金や借金などを払い稼業をやめさせること)京都の休息所に囲いました。

身請金は500両と言われています。(江戸時代後期の1両は5万円ぐらい?とされるので2500万円!)

この深雪は病弱で、身請けから1年程で亡くなります。その後、勇は深雪の妹を妾としてむかえ子供を設けています。

この3人の関係には、深雪の死後に妹をむかえたという話と、深雪が存命中に勇が深雪に手切れ金200両を払って妹をむかえたという話があります。局長は他にもたくさん愛人がいらっしゃったとか…

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ちなみに勇は地元でお見合い結婚をして正妻にツネを迎えています。この時勇26歳、ツネ23歳でした。2年後には娘を授かりますが、その翌年に近藤は浪士組(新撰組の前身)を結成し上洛しています。こちらがツネさんです。

土方歳三と数々の女性たち

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(画像出典: Wikipedia)

新撰組副長、大変もてたそうです。自身でどれだけもてるかを書き綴った手紙が残されており、独身でもあったので関係をもった女性の数は多かったようですね。

京都島原では、花君太夫天神の一元(いちげん)が手紙に記されています。

土方は君菊という女性の間に女児をもうけましたが、すぐに亡くなってしまったという話もあります。近藤勇亡き後の戊辰戦争では、新撰組時代と異なり一切の女と酒を断ったとか…

山南敬助と明里(あけさと)

山南敬助は浪士組(新撰組の前身)では副長を、新撰組初期では近藤、土方に次ぐ総長を勤めましたが、後に脱走により切腹。

新撰組が好きな方なら一度は目にする島原の天神、明里(あけさと)とのエピソード。山南が切腹を申し付けられた折、愛し合う2人が格子越しに別れを語り合ったという美しいお話です。このお話自体はどうやら創作のようですが、これに涙した方もたくさんいらっしゃると思います!

山南敬助は心優しく女性や子供たちにしたわれていたとされています。切腹時の介錯は沖田総司がつとめ、近藤は彼の最後の姿を見事だと賞賛したそうです。また鬼の副長、土方が山南の死には涙したとも言われています。

 永倉新八と小常(こつね)

新撰組で沖田、齋藤に次いで強かったと言われる剣士で、近藤や土方とは試衛館(しえいかん:近藤勇の道場)時代からの仲間です。永倉は生き残った数少ない新撰組幹部の生き残りとして近藤や土方の墓の建立や、顛末記を残しています。77歳で亡くなりました。小常は島原亀屋の芸妓で、永倉の馴染みとなった後、身請けされ妻となっています。2人の間には女の子ができましたが戊辰戦争直前に小常は亡くなったようです。

伊藤甲子太郎と花香太夫(はなかたゆう)

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伊藤甲子太郎は新撰組結成後、参謀としてむかえられました。容姿端麗で弁がたち、人望もあつかったと言われています。途中、近藤一派と思想を違え、新撰組を離脱しましたが後に新撰組より暗殺されてしまいます。伊藤は輪違屋(わちがいや)の花香太夫を馴染みにしていました。
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彼も24歳頃に結婚した奥さんを江戸に残しています。亡くなったのが32歳頃、新撰組に入って3年後ぐらいですね。

彼の写真は残っていませんが、実の弟(鈴木三樹三郎、同じく新撰組隊士です)の写真がこちらです。兄弟が似ていたならば容姿端麗と言われる理由が分かりますね。

(画像出典:幕末写真館)

平山五郎と小栄(こえい)

浪士組から芹沢鴨とともに参加し副長助勤を勤めましたが、平山を含む芹沢一派の数々の乱暴狼藉に対し処分の密命が出され、これを受けた近藤らにより35歳の時に暗殺されました。暗殺の時は深夜、馴染みにしていた桔梗屋の小栄も平山と一緒にいましたが、トイレにたっており無事で小栄は土方により逃がされたと言われます。

太夫は9万円!?

独自の料金システムをもつ島原では上から太夫、天神(転進)、端女郎とランクがあり、ランクに応じて値段が定められていました。…生と死隣り合わせの毎日を送る志士にとって癒しの場はやはり重要、そしてそこは大切な出会いの場でもあったんですね!