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チャールズ・チャップリンといえば喜劇王として世界的に知られた人物。彼の傍で秘書をつとめた人物が日本人であったことから親日家であったことも知られています。
来日前から日本に興味津々であったチャップリン
チャップリンはイギリス生まれ。母もまた、パントマイムで生計をたてる大道芸人でした。24歳の時にアメリカへ渡りデビュー、世界的にその名が知られていくことになります。
チャップリンが初めて日本を訪れたのは1932年の5月14日、57歳ときでした。彼が来日するきっかけとつくったのが高野虎一氏。10年以上の歳月をチャップリンの秘書として仕え、様々な日本の文化をチャップリンへ紹介していたようです。
初来日の際には、実に4万人以上の人々が世界の喜劇王を見るべく集まっています。
妻と息子を連れて、25年越しの来日
初来日から4年後の1936年には、年に2度も日本を訪れたチャップリンですが、その後は太平洋戦争などもあり来日の機会はないまま。
チャップリンの人生において最期となってしまった4度目の来日は1961年、彼が72歳のときで、前回の日本訪問から実に25年ぶりのことでした。
彼はこの来日に際し、 ” 妻と息子に美しい日本を見せにきた” と語ったそうです。
近代化により変わってしまった景色
来日したチャップリンは車窓から見た東京の景色を見て愕然としていたと言われています。戦前の来日時に彼が賞賛していた「鵜飼」を再び見たとき、このような言葉を残しています。
戦前のウ飼いはこんなに派手で雑然としていなかった。夜のヤミがもっと美しかった。真っくらな川かみから等しい間隔を置いて、ポツン、ポツンとウ舟のかがり火があらわれてくる。その情景はみごとな芸術家の演出の腕前を思わせた (朝日新聞 1961年7月27日朝刊p.10(縮刷版p.588)「チャプリン日本の休日」)
芸術家だったウ匠は、いまは芸人だ。ウ船がないがしろにされて、見物の船は無政府状態に移動する。川のなかに交通整理の警官が必要なくらいだ。ただ、踊り船は、ベネチアを思わせるようで良かった。昔はなかったものだが……。それに今夜の私は、まるでさらしもの(パブリシティー)だった(『週刊朝日』1961年8月4日号p.18~20「古き日本をたずぬれど… 天プラ・カブキ・ウ飼い 喜劇王チャプリンの八日間」(記事:工藤宜))
昔の記憶に思いを馳せながら寂しげに語ったというチャップリン。
自分がかつて見た美しい日本の情景を家族にも見せたいという彼の思いとは裏腹に、日本の近代化の波は急速に、そして様々なところまで広がっていました。
チャップリンが再び来日することはなく、最期の来日から16年後に88歳で生涯を閉じています。
参照元:日テレDon きょうはなんの日, レファレンス協同データベース