
帰秋を切望しながらも都内で働く社会人3年目。大曲の花火について語らせると小一時間はとまらない。最近の趣味は秋田の母がつくった作品の広報・売子。1990年生まれ。秋田市出身。Twitter:@fmk424
はじめに
筆者が秋田県民歌を初めてきちんと歌ったのは中学生の頃。通して歌ったその日から、秋田県民歌を大好きになりました。
あれから10数年。縁あって、秋田県民歌について連載記事を書かせていただくことになりました。
さて、あふれる愛のままに語ろうにも、秋田県民歌について説明しなければ他県の方には「なんのこっちゃ」な連載になってしまいますので、まずはその歴史についてざっと説明することにします。
日本最古の県民歌
日本の県民歌の多くは、第二次世界大戦後に誕生したものです。一方で、秋田県民歌の制定は昭和5年。
秋田県民歌は唯一戦前に制定された、日本最古の県民歌なのです。
教育勅語渙発40周年記念に誕生
制定のきっかけは、教育勅語渙発40周年を記念した歌詞の公募。わずか1ヶ月足らずの募集期間に、なんと41名からの応募があったそうです。
そして、その中から選ばれた1篇が「秀麗無比なる…」から始まるあの歌詞でした。これに東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽部)の秋田県出身者、成田為三が曲をつけ、完成しました。
80年以上歌い継がれる歌詞
秋田県民歌は制定から現在に至るまでの80年以上もの間、変更が一切なく、当時の曲・歌詞のまま歌い継がれています。これは全国的に見ても非常に珍しいこと。
情勢にあった歌詞に変更したり、合併で失われたりと、多くの県民歌や市町村歌が時代とともにその姿を変えるなかで、秋田県民歌だけはその原型を留めたまま愛されている…これは誇るべきことではないでしょうか。
歌われなくなった、3番と4番
そんな秋田県民歌、実はとっても長い歌です。4番まであります。しかし、通常歌われているのは1番と2番のみ。筆者は3番と4番も含めて大好きなのですが、現在、歌われることはほとんどありません。
また、原案と現在の歌詞とでは多少の相違があるのです。次回はなぜ3番と4番が歌われなくなったのか、原案からどんな部分が変更されたのか。そんなことを書いてゆきたいと思います。お楽しみに。