画像出典:wikipedia五稜郭
2014年で150年を迎える五稜郭について調べてみました!
五稜郭ってなに?
1802年、ロシアの脅威に備え、幕府直轄の外交体制を整えるため箱館奉行所が設置されました。それから約50年後、ペリーの浦賀来航と日米和親条約の締結によって箱館の開港が決定。
五稜郭は箱館奉行所の後の姿
当時の奉行所は山のふもと(現在の元町公園がある場所)にあり港と町を一望できましたが、入港する外国籍軍艦から標的になる、また山頂付近から内部を見通される恐れもあるなど防衛上の問題が浮上したため、箱館港周辺の防衛強化対策として奉行所の移転と港湾を取り囲む砲台の整備が進められることになりました。
どうして星形?
画像出典:wikipediaオランダのブルタング要塞
五稜郭は国内で初めての西洋式城郭です。星形の城郭は防御側の死角が少ないなどの利点があり、当時ヨーロッパを中心に普及していました。
箱館に入港したフランス軍艦の軍人が築城術などの書かれた書籍を箱館奉行所に贈呈し、新しい奉行所の設計にこれが参照されたようです。1857年から7年の歳月をかけ完成し、1864年に奉行所は移転されました。(建設途中で財政難に陥り、一部計画変更もあったそう。)
完成からわずか7年で姿を消した五稜郭
箱館戦争終了後、新政府による北海道の当治が始まりましたが、五稜郭を役所として利用することはありませんでした。箱館も函館と名称が改められ、1871年には建物の大部分が解体されます。土塁や石垣、掘割を残しその姿を消してしまいます。(2010年に奉行所が復元され、現在は資料館になっています。)
画像出典:wikipedia五稜郭 当時の五稜郭本陣写真 明治元年撮影
五稜郭設計を手掛けたのは、蘭学者の武田斐三郎
緒方洪庵に就いて蘭学を学び、語学だけではなく西洋医学、砲術、兵学などを学ぶ。塾頭になる優秀さ。後に江戸に出て、伊東玄朴に就いて英語を、佐久間象山には西洋兵学を学び、特に航海、築城、造兵などの科目に励んだ。優秀さを買われて驀臣へ。
蝦夷地出張を命じられた際にはペリーとの応接にも立ち会ったそう。
洋式教育の必要性を幕府へ進言し、北海道最初の学問所といわれる箱館奉行所付属の「諸術調所」の設立を計画。この塾では幕士、藩士など身分の区別を取払い、優秀な人には入学を許可し、学力によって評価を行った。斬新な教育法は注目を集め、数多くの青年たちが集い、山尾庸三、前島密、井上勝、蛯子末次郎、水野行敏、今井兼輔などの名士を門下に輩出した。
イギリス船で見たストーブを書き写して、国産ストーブの第一号を作ったこともあるそうです!
五稜郭築造150年祭が11月頃まで開催中
150年記念として10月〜11月頃までイベントが開催されています。五稜郭跡地では、幕末の衣装を着用したスタッフが五稜郭跡を巡回し一緒に記念撮影ができる「幕末見廻隊」や箱館戦争の戦闘シーンを再現する「箱館戦争抜刀隊」などが予定されています。また同時に幕末から開港・明治にかけて名を残した100名以上の人物が紹介される掲示塔が函館市内17ヶ所、30基設置されるそうです。
戊辰戦争最後の戦い・箱館戦争の地となった五稜郭。当時の最先端の学を投じて築造された城郭がわずか7年で姿を消すとは、正に激動の時代を感じる建造物ですね。150年という節目の年、是非足を運びたいと思います!