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「地域に生きる」市民の責任と役割

「地域に生きる」市民の責任と役割

    CATEGORY:観光 AREA:北海道

「地域に生きる」には、そこに責任と役割があることを意識することが重要になってきます。自らの住む地域の環境を良好な環境の維持のための責任と役割を運動に活かした小樽のケースをみてみましょう。


「地域に生きるとは何か」を問う姿勢

小樽運河といえば、今は小樽運河、煉瓦倉庫群は多くの観光客を引き付ける観光資源となっていますが、30数年前には運河を埋めて道路にし、倉庫群はスクラップ&ビルドで近代的な倉庫に建て替える、という都市計画決定がされて、事業着手もされていました。あと少しで運河に工事がかかる、というところでごく一部の市民から始まった活動により、現在のような美しい街並みが保存されることになりました。

この成果は、「地域に生きるとは何か」という問いかけが、多くの人の心に届いたからといえます。元小樽運河を守る会会長の峯山富美さんは、「地域に生きるとは何か」ということを、次のように表現されました。

「町は過去に生きた人たちと、現在の者と、これから生きる人たちの共同作品。過去の人たちの英知、積み重ねた文化や歴史を受け継いで私たちの今がある。私たちはそれを確かに次の世代に伝承していく責任がある」。

小樽運河保存活動の変遷

1970年代前半当時、小樽運河はヘドロが溜まり、悪臭を放ち、海岸線にはゴミが捨てられ、倉庫群は朽ち果て、市民が近寄るような場所ではなかったといいます。一般市民の価値観からは、早く埋め立てて、近代的なまちづくりをして欲しい、こういう場所が残っているからこそ、小樽が衰退しているのだ、そういう場所だったのです。

計画図のように、一部運河を残し、両側を道路で覆い、高速道路の延長線となる高架道路を作る予定でした。

〇第一期(問題提起期)1973~1976年頃
署名を集めて、議会や小樽市に街並みを保存するようお願いをする、という段階の取組みでした。しかし、もう事業に着手している段階では遅く、市民の大多数も劣悪な環境の倉庫群は早く埋め立てて欲しいという気運だったので、運動としてはほとんど機能しませんでした。しかしオイルショックがあり、工事は中断されました。

〇第二期(啓発期)1978~1980年頃
大きく運動を変えたのは、小樽青年会議所が中心となって行った1979年の「歩こう。見よう。小樽ふるさとへの路」キャンペーンです。小樽運河の周辺には、歴史的な建物がたくさん残っていましたが、誰もその存在、その価値に気づいていないのが現状でした。そこをオリエンテーリングという方法を取り入れ、実際に訪れて、その価値を再認識してもらおうという取り組みです。1日に5,000人もの人が集まり、街の良さを知ってもらうきっかけとなったのです。

更に大きな衝撃を与えたのが、同年に小樽に住む若者たちによって開催された音楽フェスティバル「PORT FESTIVAL IN OTARU」です。その背景には、東京に出ていき、Uターンして戻ってきた若者が、改めて「この小樽には東京にはない財産がある。この運河という空間はかけがえのない、みんなの舞台になる空間ではないか」と感じたことから、運河や倉庫等街中をステージにしていったのです。このイベントは2日間で数万人の人出がありました。

こうした相次ぐイベントの開催で、歴史的街並みに多くの人の意識が向き、実感をもって体験してもらうことができたのです。このことが「早く埋め立てをしろ」という意見から「運河を残すために、道路計画を見直すべきだ。」と転換していくきっかけとなったのです。

こうした動きに呼応するように、小樽市民は各世代横のネットワーク「小樽運河100人委員会」というものをつくり、都市計画決定の見直しを求める署名に、当時小樽市民18万人のうち約10万人が参加するまでの大きなムーブメントとなったのです。多くの人が、この街並みを将来のまちづくりの資源として活かすべきだ、と意思表示をするまでになったのです。これが現在の街並みを形作っているのです。

住民こそが気付く、その街にとって大切なもの
このように、市民のパワー、そして取組みがなければ今の小樽はなかったわけです。市民が声を上げなければ開発の進んだごくごく普通の街になっていたでしょう。その時代の転換点で、その街で一番大切なことは何か、ということを体で表現する、街を変えて行く力があるのは住民のパワーだ、ということを小樽の美しい景色は我々に語っているのです。