食の情報誌「料理王国100選2017」への選出や、ミシュランガイド熊本・大分2018特別版に掲載されるなど、今、波に乗っているフランス料理の店が熊本県天草市にある。独り立ちするまでに10年20年の修行が当たり前のレストラン業界の中にあって、この店のオーナーシェフは弱冠32歳。華々しい活躍の裏には大変な苦労と努力があったという。これまでにどのような経験をしてきたのだろうか。
さまざまな顔を持つオーナーシェフ
熊本県天草市にカジュアルフレンチの店「Picasso(ピカソ)」をオープンした、松田悠佑(ゆうすけ)さん。店舗を構えたのは2年前だが、事業自体の立ち上げから数えると丸4年になる。
今となってはフレンチレストランとして知られているこの店の前身は、天草の食材を使った食品の加工・製造業だった。マルシェやイベントへの出店、出張料理人として少しずつ基盤を固め、松田さんは満を持してレストランの開業に踏み切った。現在、松田さんは飲食店のプロデュース業やコンサル業なども手掛け、多忙な毎日を過ごしている。
どうしたら稼げるかを考えて過ごした子ども時代
松田さんの家は代々飲食業を営んでおり、天草には祖父の代で店を持ったという。松田さん自身は自動販売機の飲み物を見ながら、なぜ売れるのか、売れる背景を考えるような子どもだった。
「親の代からの基盤がある人は恵まれている」と多くの人は思うかもしれない。しかし、松田さんの場合は親の力を借りずに今の立場を築いたといってもいい。父が事業に失敗したため、実家は多額の借金を抱えていたからだ。幼心に「お金がなければなにもできない」と思っていた。「いつか絶対成功してみせる。」そう松田さんが決意したのは、まだ小学校高学年のとき。
「お前の親父、失敗したな。」知り合いにそう言われたのがきっかけだった。
22歳、料理人としてのスタートは前途多難
高校卒業後には経営の勉強をしたいと思っていた松田さん。しかし、大学に進学する経済的な余裕はなかった。当時、選択できた最善の方法は自衛隊に入ること。下の兄弟が高校を卒業するまで名古屋の航空自衛隊で勤めた後、かねてからの希望だった料理人の道に進むことを決める。
しかし、22歳という年齢は料理人にとってはかなり遅いスタートだ。そして、時はリーマンショック。グルメ情報誌や求人誌を見ながら電話をかける日が続いたが、不景気な世相とも重なり松田さんを修業させてくれるところはなかった。自衛隊の寮を退寮した後も実家に戻ることはできなかったため、ホームレス生活を半月ほど続けたという。
そんな松田さんに、ダメ元で応募したフランス料理店との縁が待っていた。その店は名古屋では有名な社長が経営しているレストラン。募集はホールだったにもかかわらず、幸いにも社長が直々に料理人として採用するように取り計らってくれたという。
後から知ることになる採用理由は「死にそうだったから。」社長は、島原から集団就職で名古屋へと出てきた相当の苦労人で、若い時の自分と松田さんを重ねて見ていたのだそうだ。「野良犬になったことがあるヤツは中途半端なことはしない」。社長は、十分な食事ができずやつれた松田さんを見かねて食事も出してくれた。
地域資源の活用と販路開拓の方法を独学で習得
料理人の世界では先輩の技を盗むのは当たり前のこと。名古屋のレストランに在籍した5年間、松田さんは人の数倍は働き続けたと言う。驚くのは寝泊りしていた場所だ。家を借りられなかったのでレストランの物置に住み込み、置いてあった料理関係の本を片っ端から読んで実践していたという。
人よりもたくさん働けば、一定のレベルに到達するまでの年数は短縮できる。
そう、松田さんは考えた。後に取り組む事業に通じる肉の加工技術は、レストランの営業時間外に課した修業で身につけたものだ。特に有意義だったのは、イノシシ肉のジャーキーを作れるようになったことだという。
天草ではイノシシが問題になっていて、捕獲したイノシシをわざわざ名古屋に送ってくれる人もいたそうだ。当時まだジビエはあまり知られていなかったが、広まりつつある予兆を感じていた。
松田さんは作るだけでなく、自ら販路も開拓した。素材そのままでは売れなくても、加工すれば売れること。相手と売り方を選べば売れるということも分かった。試行錯誤する中で、商品としての製造を始めることを考える。
都市部で得た感覚が地元のニーズに結び付いたレストランでは料理長昇格の話もあったものの、それを断り天草に戻ることを決断した松田さん。結婚して子どもが生まれ保育園問題にも直面したことなど様々な理由はあったが、一度天草の外に出たことで地元の良さを実感するようになっていたことが心を動かした。天草は豊富な食材が安価に手に入れられる地域。イノシシなど、地域資源を活用していくのもおもしろいと思っていた。
天草に戻り、松田さんは天草の生産者と東京のバイヤーの橋渡しをするようになる。地方の生産者には、都市部のレストランなど現場に必要とされる売り方のスキルや価格設定の感覚が不足していることが多い。レストランでの経験を持つ松田さんには、現場で使いやすい商品のことが分かっていた。
生産者と業者の双方が採算をとれるような売り方と値付けの方法をアドバイスするうちに、自身の加工品の取引先も増えてきた。生産量が拡大するにつれて、人を雇い入れる必要を感じるようになる。だが、従業員がいればコストも増える。BtoBのビジネスモデルでは掛け金の回収に時間がかかる。そこで現金商売の方法としてレストランを開業することにした。レストランがあれば加工品の使い方の提案や、商品化できなかった端材も活用できる。
自分がしたいことを、どう実現するか
意外にも、松田さんには料理以上に好きなことがあるという。自分の作ったものを食べさせたいというよりは、喜ぶ人の顔を見るのが好きなのだ。彼にとって食はコミュニケーションツールの一つ。
飲食業は働き方の観点から見れば効率が悪い。でも、生産者とバイヤーの橋渡しをすることで天草の物流量が増えるのは良いことだと思う。それでみんなが喜んでくれたら嬉しい。経済効果が生まれれば、子どもたちにも住みやすい場所になるのではないか。
松田さんは、他人から見れば努力の塊のような人だ。しかし、本人いわく好きでしていることに「努力」はないという。今後は後身の育成など、やってみたいこともたくさんあるようだ。
人生にとって重要なのは、目的を持つこと。何をしたいか、自分にしたいことができるかを一番に考え、実行するなら「都会」にこだわることなく「地方」という選択肢もある。