「日本の森林は危機に瀕している」と言われると、驚く方が多いかもしれません。
日本の特徴として、緑が豊かで、水が豊富なことがよく上げられます。実際、少し田舎にいけば、山は木々に覆われ、豊かな自然を感じられます。
しかし現在、山の環境はどんどん悪化していく一方となっています。鳥獣害や保水力の低下など、社会課題にも直結している山の環境の悪化。
今回の記事では、貴重な地域資源としての山の活用と、持続可能な地域づくりのヒントを、徳島県神山町の事例に注目して探っていきます。
「金にならない」から山が荒れる
まず、日本の山の状況を整理してみましょう。
日本の森林率は67%。この数字は、世界的に見ても高く、日本は世界有数の森林大国であるといえます。
しかし現在の多くの森林環境は、戦後の造林運動が契機となっています。明治時代の文献によると、日本中に禿山が多かったという記述もあり、現在の景色は比較的最近に人工的に作られたものであることがわかります。
なぜ国土の全域が森林に覆われるようになったのか。それは、戦中・戦後には軍需物資や復興のために、建築用木材として経済的価値が高い、スギやヒノキなどの針葉樹を植林する「拡大造林政策」がとられたためです。
その過程で、広葉樹が大量に伐採され、針葉樹に変わっていきました。しかし、このタイミングで植えられた木々が育つ前の1964年に木材輸入が自由化されたことで、安価な外国産材が市場を席巻してしまいます。
「金になる」と国をあげてとられた政策であるにもかかわらず、「金になる」前に梯子を外されるようなかたちになってしまったわけです。
その結果、林業の担い手も減り、山が荒廃することになっていきます。
「所有者不明」という課題もある
また森林が手入れされないという状態を放置してしまった結果、「山の所有者が不明」という事態にもつながっています。
「あの山のどこかに私の土地がある」とか「あの山はうちのもの」と言った言葉を、地方出身者であれば聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。(私の実家でも聞いたことがあります)
実は歴史を振り返ると、日本は過剰な伐採による森林の荒廃を既に経験しています。上述したように禿山が全土にわたった時期があり、江戸時代には、森林資源を守るために、過剰な伐採を禁じるなど、様々な保全の施策が行われています。江戸幕府は、森林資源の枯渇や洪水等の深刻化を受け、植林を奨励し、造林も多く奨励していたのです。
現在の森林が多い国土は、このような歴史背景のもとで人工的に作られていきました。
明治時代になると、政府は森林への近代的所有権を導入していきます。1876年のことです。この後、戦中の木材需要の高まりも受け、日本全土で林業が盛り上がります。
林業の歴史は、日本の木材需要の歴史といえ、江戸時代から荒廃と保全を繰り返しながら、現在は、明治時代に端を発する所有権のもと、小規模の私有地が総合的な山を形成しているというわけです。
そして現在直面している「所有者不明」の問題とは、価値がない(なくなってしまった)と捉えられ、放置されてしまった山が相続申告などがなく所有不明となり、誰のものかわからなくなった状態を指します。
こうなると誰に許可をとればよいかが分からなくなり、林道の整備や間伐などの森林環境の手入れが行えず、ますます荒廃が進むという悪循環に陥ってしまっているのです。
アートの展示場所として活用
森林の荒廃をまったく新しい視点から回復させた事例があります。
それが徳島県神山町の大粟山の事例です。神山町といえば、都市圏の企業をサテライトオフィス開設で誘致したり、移住者が暮らしやすい環境づくりなど、地方創生の成功事例として注目されている地域です。
地域づくりの初期から行われているのが、「神山アート・イン・レジデンス(KAIR)」。国内外のアーティストを招き、一定期間の滞在中にアート作品を作ってもらうという活動です。(招待アーティストは海外2人、国内1人の計3人)
実は、ここで完成した作品の展示場所として、町の中心である大粟山が活用されています。
しかし最初からこの状況が実現されたわけではありません。かつて大粟山は、足を踏み入れられないほど荒れていたといいます。
なぜアートと共生する山は生まれたのでしょうか。
アーティストの勝手な行動が発端
大粟山にアートが誕生したきっかけは、2002年に来日したアーティストが、無断で山に作品を作り始めたことだといいます。
このときは、アート・イン・レジデンスを主催するNPO法人グリーンバレーが地権者に事情を説明し、事後承諾のかたちをとることができました。
しかしまた翌年に招いたアーティストが勝手に作品をつくってしまいます。毎回毎回の許可取りは大変だということで、山の地権者に山を整備する代わりに制作の自由を認める協定を結ぶことになります。
この整備が始まったのが、2004年12月。
それ以来13年にわたって、作品が屋外展示されることで生じるメンテナンスと、森林環境への手入れという2つの山への関わりが行われています。
整備するのは、有志の町の方々。月に一度手入れをし、作品と山を整えていきます。アートも山も、時間を重ねることで緩やかに変化していく景色がそこには広がっています。
アーティストが勝手につくってしまったという偶然が、山をアートの聖地にするという必然へと至っていくことになったわけです。
アートが溶け込んだ景色を楽しめる
現在の大粟山は、林道が整備され、自然とアートの共生を見て、体感することができます。
整備された森林は美しく、思わず足をとめ、深呼吸をしてしまうこともしばしば。歩いていると、突然アート作品に出くわし、リアルとファンタジーが融合したような体験をすることができます。
少しだけ作品を見てみましょう。
私有から共有へ
神山町の大粟山は、木を供給するという場ではなく、アートの展示場としての価値を獲得することで、整備され、持続可能な山になることができました。
手入れをする理由と価値ができることで、景観の一部として生き残ることができたのです。
これは私有から共有への再帰だとも考えられます。かつて山は、神様の住まう場所として、地域全体にとって大切にされる場所であったはず。それが近代化によって、分割し個人に所有というかたちで割り当てられるようになり、共同体の共有物ではなく、私有地になりました。
近代でかたちづくられたシステムが限界を迎え、様々なところでほころびが生まれている今こそ、再び資源を共有することで未来に残すことができる局面を迎えているといえるかもしれません。
個別化・個人化によって、分配されていた地域資源を、未来に残すために、地域全体で共有するという発想が求められているように思います。
徳島県神山町の大粟山が、山の価値の転換と、地域に共有される資源として捉えられたことで未来につながることになったという事実に、学ぶことは多くあるといえます。