「天下三槍(てんかさんそう)」と呼ばれる槍が存在するのをご存知ですか?戦国時代を通して名槍と言われたこの三本の槍はどのように生まれそしてどこへ行ったのか。天下の三本槍についてまとめてみました。
徳川家康の実子が受け継いだ槍
(画像出典:Wikipedia)
下総国結城の大名、結城晴朝がつくらせた御手杵(おてぎね)の槍は全長が約215センチ、重さは約22.5キロの大きな槍です。鞘が細長く手杵(中央がくびれた丸く細長い棒で、くびれ部分を手で握ってつく農機具)に似ていることから御手杵の名前がついたと言われます。この御手杵は、徳川家康を実の父にもつ、晴朝の跡継ぎ、結城秀康へと伝わり、後に秀康の子孫へと受け継がれていきました。
代々受け継がれた御手杵ですが、東京大空襲により所蔵倉が焼夷弾の直撃を受け、多くの宝物とともに焼失したそうです。現在、その復元されたレプリカが結城市図書館に所蔵されています。
槍をもった人の後ろに写るのは、専用の巨大な鞘で、当時は参勤交代の際に馬印として先頭にあったそうです。これ、どちらも持って歩くとか…考えられない大きさです。
黒田節に歌われる名槍
(画像出典:福岡市博物館)
もともとは皇室の所有物であったという槍「日本号」(にほんごう、またはひのもとごう)は全長321.5センチ、重さ2800グラムの槍で、室町幕府十五代将軍・足利義昭に与えられ、その後、織田信長から豊臣秀吉、秀吉から福島正則へと受け継がれていきます。そしてこの福島正則から槍を呑みとったのが黒田藩きっての槍の名手、そして大酒豪の母里太兵衛(おもりたへい)。以下が伝わる逸話です。
福島正則のところへ使者として来ることになった太兵衛に、政則はいい飲み相手ができた、と酒をすすめます。しかし一方の太兵衛は酒豪でありながら全く飲もうとはしません。実は太兵衛、藩主である黒田長政に面倒が起きては困るからとその日禁酒を言い渡されていました。断固飲酒を拒否する太兵衛と、しつこく酒を勧める正則。ここで正則は大杯に並々を注いで、「これを飲み干せばなんでも好きな物を褒美としてとらす」と更に勧めます。主君の命をまもり頑な太兵衛を見た正則は「酒豪と言われているがこれぐらいの酒も飲めないとは黒田家の侍はたいしたことない。長政殿もお気の毒に。」と更に挑発します。それを聞いた太兵衛は藩の名を出されてはこのまま引き下がれない、と酒を飲み干し、飲み終わると約束の褒美にと「日本号」を指しました。家宝と言える槍ですが、正則も「武士に二言はなし」と槍を譲り渡したそうです。
(画像出典:Wikipedia) 左から母里太兵衛、福島正則
「酒は飲め飲め、飲むならば、日の本一のこの槍を、飲み取るほどに飲むならば、これぞまことの黒田武士」
この黒田節の一節は、このエピソードを歌ったものです。家宝とされている名槍を褒美にという太兵衛のむちゃぶりもそうですが、正則がこれを受けたのもまたすごい。戦国武将らしい剛胆さですね!
その後この槍は、後に太兵衛の命を救った礼として後藤基次に贈られ、基次の親族へと受け継がれていきます。一度彼らのもとを離れますが旧藩主黒田家に贈与され、その後福岡市へと寄贈されました。現在、福岡市博物館に所蔵・展示されています。
徳川四天王がひとり、本多忠勝がもっていた槍
(画像出典:Wikipedia) 東京国立博物館所蔵の槍
徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑…その武勇伝から様々な称号を持つ戦国武将、本多忠勝が愛用したのが「蜻蛉切」(とんぼきり)です。その大きさは全長約410センチ、約2000グラムで、戦場にたてていた槍に蜻蛉があたって真っ二つにきれたことからその名がついたと言われています。(晩年、体力の衰えを感じた忠勝は柄の部分を切り落として使ったとか。)
(画像出典:Wikipedia)本多忠勝 13歳で初陣、生涯57回の戦にでたがかすり傷ひとつなかった猛者!
本多家にはもう一つ別の蜻蛉切があったと言われていますが、その消息は二本とも共に不明です。現在では岡崎城に復元されたレプリカが、東京国立博物館に後に作成されたものが所蔵されています。
槍は人類最古の武器でもあり、人類の戦いの歴史にはなくてはならないものだったそうです。長いものでは全長6メートル!もはや持つだけでも精一杯な気が… 戦場では、槍がおれても柄の部分だけで戦うこともあったようです。