東京港区高輪に東禅寺というお寺があります。1858年に締結された日米通商条約によって1859年からイギリス初代公使オールコックらがここに駐在することとなり、東禅寺は、わが国最初のイギリス公使館となりました。
*オールコックについてはこちら
今回はそんな東禅寺を舞台として起こった攘夷志士による、イギリス公使館襲撃事件についてまとめました。
ロンドンの新聞にも取り上げられた大事件
(画像出典: Wikipedia)東禅寺事件
この絵はロンドンニュースに掲載された絵で、事件に遭遇したチャールズ・ワーグマンが描いています。
解説によると浪士の向かいに立っているのは書記官のローレンス・オリファント。彼は乗馬用の鞭で刀を持った浪士達に立ち向かったそう。襖の奥で様子をうかがっているのは長崎駐在領事ジョージ・モリソン。イギリス側はこの2名が負傷しました。公使のオールコックは公使館員が短銃で応戦した為、無事でした。
英国150名に対して、14名で襲撃?!
対する浪士は、全部で14名。水戸藩を脱藩した攘夷派の人たちです。
襲撃に失敗した彼らは逃走をはかりますが、内数名は自刃、数名は直後に捕らえられたり、後に捕まったりと処罰されています。(何名かは逃げおおせたみたいです)
この時、公使館は150名前後の警備兵により守られていたようです。
何が浪士を怒らせたのか
オールコックは事件直前、長崎に滞在していました。そこから江戸に帰る際、幕府は安全上の懸念から海路での移動を勧めます。
しかしオールコックはこれを押し切り陸路で出発。江戸に戻るまでに、京都見物、富士山登山などを経て江戸に到着しました。当然寺に到着したのが5月27日、襲撃は翌日の28日夜10時頃となりました。
実はこのオールコックの行動が浪士たちの怒りをかい、事件のきっかけになったと言われています。
特に富士山は古くから霊峰としてあがめられてきた日本のシンボル。彼らは「神の国日本が穢された」と感じ、襲撃を決意したのかもしれません。浪士が携帯していた襲撃を決した書面には「尊攘の大義のため」と書かれていたそうです。
またまた起こった東禅寺事件
オールコックが襲撃された事件は第一次東禅寺事件と呼ばれています。そう、事件には二度目がありました。第二次東禅寺事件です。
第一次の事件が起こった際、オールコックは警備が期待できないとして公使館を一度横浜へと移しています。しかし、オールコックがイギリス帰国中に代理となったジョン・ニールは再び東禅寺に公使館を戻してしまいました。これがあだとなります。
きっかけは、松本藩士・伊藤軍兵衛の想い
第一次が大人数での襲撃だったのに対し第二次事件は一人によってなされています。松本藩士・伊藤軍兵衛です。伊藤は東禅寺の警備兵として任を勤めていました。
夜中にニールの寝室に侵入し暗殺を試みますが警備のイギリス兵2名に発見され戦闘となります。この警備兵2名は伊藤により絶命。自身も負傷し、一旦松本藩番へと逃れますが後に自刃しました。
なぜ伊藤一人の犯行だと分かったのか。それは藩邸に残されていた彼の遺書によって判明します。
以下は遺書に書かれていた内容です。
“国中のため、ご藩主様の御ためと想い、偉人を打ち取ろうと思い狙っていたところ四方神力の恵みにより首尾よろしく打ち取ることができました。恐れながらご公儀にお届け申し、心のまま申し上げ、その後いかなる罪にても仰せこうむります。これに付き、ご藩主様へ何かあっては不忠第一になるので屋敷を出奔し、浪人となります。ご詮議があればこの通りにお答えください。”
この後に続く言葉にはイギリス公使館に対しての皮肉がこめられています。松本藩が警備に対する費用を負担していたこともありますし、伊藤が藩を想い、国を想って起こした事件であったことには間違いないようですね。
警護によって間近でイギリス人たちの行動を見ることで憂いがつのっていったのかもしれません。遺書内には、“警備をおおせつかって向かったが、婦人をつれて江戸見物をするとのこと、誠に心外”とも綴られています。伊藤のイギリス公使館に対する怒りが見てとれます。
日本が負担した、驚愕の賠償金
第一次、第二次東禅寺事件。これは賠償金を伴う事件となり第一次に対して1万ドル、3億7500万円(1両5万円計算なのであくまでも目安です!)、第二次に対して1万ポンド、15億円もの金額が支払われることとなりました。
この第一次と第二次の事件、内容は全く異なりますが第一次は1861年5月28日、第二次は翌年の5月29日に起こっています。
当時、第一次東禅寺事件で罰せられた水戸藩浪士の残党が再度襲撃をするという噂が流れていたようですが、伊藤はこれを受け、外国人の為に日本人同士が切り合うことを悲観していたとも言われています。