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現代の教育にも通じる?幕末志士を感化した「水戸学」まとめ

現代の教育にも通じる?幕末志士を感化した「水戸学」まとめ

    CATEGORY: AREA:茨城県

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水戸学の始まりは「ひかえおろー」でおなじみの水戸光圀

水戸学は前期と後期に分かれるとされており、前期は水戸黄門で有名な徳川光圀が始めた「大日本史」編纂(へんさん)に始まります。

光圀は18歳のときに司馬遷「史記〜伯夷例伝〜」に感銘を受け、史書の編纂を志したそうです。 (史記はこの世に行われるべき正しき道が本当に存在しているのかどうかを思想とした中国の歴史書で、伯夷例伝は史記の一番最初のお話です。)

朱子学を基本にした水戸学

光圀は当時日本にはなかった史記のような歴史書を作ることで過去の歴史をひも解くとともに、日本のあるべき姿を追求しようとしました。

その過程で生まれた思想が水戸学前期の基盤となります。 光圀の学問は朱子学を基本としていますので、「大日本史」の構想においても歴史上の人物の評価を朱子学的な価値観から行いました。

絶対的な忠誠を尽くすべきは王者

朱子学は中国から伝わった思想なので、中国の歴史背景を基に考えられていますが、これをまるっと当てはめて考えました。その中に「尊王」というものがあります。

まず、国の支配者は王者と覇者に分けられて考えられます。王者とは仁徳をもって国を治めるもの、覇者は武力によって相手を倒したもの、という分け方です。そして絶対的な忠誠を尽くすべきは王者であると説いています。

ふむふむ…これを日本に当てはめて考えると、日本の王者は天皇だ!となる訳です。

(実はこの朱子学、幕末を語る上でかなり重要です!戦国の世を生きた家康が、第二の明智光秀を出さぬよう、主君への絶対的な忠誠心をを求め導入させたと言われるのがこの朱子学で、士農工商といった身分制度にも大きく影響しています。)

水戸学の完成は、250年かかった?

さて、編纂事業ですが、徐々に進み1672年には「彰考館」を編纂研究所として開設、当時の有名な学者をそろえて様々な資料を集め、本格的な編纂を開始されました。

この大事業は光圀存命中では終わらず、光圀没後は水戸藩の事業として受け継がれます。藩をあげての大事業の中で独自の学問が発展していきました。大日本史は途中停滞ややり直しを経て、着手から250年の長い時をかけ完成しています。

後期水戸学での思想を学ぶ

後期水戸学では、光圀の時代から時が流れ、新たな思想をまとめた書がでてきます。

藤田幽谷(ふじたゆうこく)「正名論」

これは水戸学の草分けとなったとも言われる書です。幽谷は14歳で彰考館に入り、大日本史編纂に携わり、18歳の時に「正名論」をまとめました。

正名論は「幕府が天皇を尊ぶことで大名は幕府を尊び、大名が幕府を尊べば藩士は大名を敬い、社会的な上下秩序が保たれます。君主と臣下の名文を厳正にすることが重要で、また尊王も重要です」といった内容です。

(前期水戸学においての尊王論が、後期になるとより日本向けにカスタマイズされているような印象です。彰考館は秀才しか入れない機関でもあり、また18歳でこれを著しているとなるとすごい才能の持ち主だったのでしょうね…ちなみに彼の子供・藤田凍湖(ふじたとうこ)もまた父の亡き後、彰考館で大日本史編纂に携わり、水戸学派のリーダー的存在になっています。)

会沢正志斎(あいざわせいしさい)

藤田幽谷の弟子で、10歳で藤田幽谷の私塾へ入門、後に大日本史編纂にも携わります。幽谷没後は彰考館の総裁代役に就任し、以後は斉昭の補佐として藩校の教育内容を研究し、初代教授頭取となりました。 会沢は幽谷の意思を継承した「新論」を著しています。

新論は外国勢力の侵略に対抗するためにどうしたらよいのかを説いたもので、国の内外における政治的な危機を乗り越え,富国強兵を実現するためには,人々の心をまとめる方法として尊王と攘夷が必要であると強く主張した内容です。 この「新論」は内容が過激なことから無名で出版されましたが、遠く広まり、長州の吉田松蔭真木和泉守も教えを請いに水戸を訪れました。

また1853年には会沢の名で出版され、広く尊王攘夷の思想を広めることとなりました。

(藤田幽谷の思想に、外国への対応となる「攘夷」が追加されています。時勢の変化とともにその学問が変化していっているのが見えますね。実はこの攘夷、これにも朱子学的な価値観が関わっています。「中華思想(華夷思想とも呼ばれます)」ざっくり言うと、中国中心に世界は廻る、中国の文化や精神こそ最高に価値があるといったものです。ジャイアン的なやつですね。この思想は同時に、自分たち以外はそうでないという自分たち以外を卑下する内容にもなってきます。この中華思想が当時の日本が諸外国に対してもつ考えのベースになっていました。)

まとめ:水戸学は、尊皇攘夷の先影になった

光圀が着手した大日本史編纂は藩をあげての大事業となりました。編纂を通し、どこよりも強く朱子学的な思想を藩の教育に反映させた水戸藩。時勢の変化によって、より現実的な実学が必要とされ、尊王攘夷の先駆けとなったんですね。

水戸藩は徳川御三家の一つ。あくまでも天皇を頂点とした幕府・藩体制を基礎としていたはずですが、後に彼らの学が倒幕へと向かう志士を影響してしまうとは…歴史は明治維新へ向けてすすんでいきますが、水戸藩はこの後、内部抗争により力つきる運命を辿ります。この続きもまた書いてみたいです。

最後に、朱子学についてこちらを…

朱子学について司馬遼太郎談

「朱子学は、宋以前の儒学とは違い、極端にイデオロギー学だった。正義体系であり、別の言葉で言えば正邪分別論の体系でもあった。朱子学が得意とする大義名分論というのは、何が正で何が邪と言う事を論議する事。しかし、こういう神学論争は年代を経ていくと、正の幅が狭くなり、鋭くなり、ついには針の先端の面積ほどもなくなってしまう。その面積以外は、邪なのである」

参考にさせて頂いたサイト
常磐神社 水戸学
弘道館事務所