岐阜移住:農山村地域に5年で50人、移住希望者と空き家をつなぐ

岐阜県の西南端にある大垣市上石津町。この地域は、牧田・一之瀬・多良(たら)・時(とき)という4つのエリアから成り、それぞれに異なる歴史と風土を持っている。関ケ原町や養老町に隣接し、大垣の市街地にも近い牧田地区に対し、多良・時地区は鈴鹿と養老の山並みに囲まれた農山村地域だ。

大正時代、陸軍の工作で多良峡沿いの道が造られるまで、大垣方面に行くには険しい勝地峠を越えるほかルートはなかった。冬には降雪量も多く、通勤通学に苦労することもあるが、豊かな緑がまちの喧騒に疲れた心と体を癒してくれる。

滋賀と三重の県境にある「時地区」は、4地区の中で最も早くからまちの将来に危機感を募らせ、まちおこし事業に力を入れてきた。「時」の公民館長を務める伊藤芳さんは地域の世話役であり、まちづくりや移住・定住のキーパーソンだ。

5年間で20家族50人もの移住希望者を地元に受け入れてきた。今回、伊藤さんを訪ね、地域の世話役としてのバックボーンや故郷に寄せる想いをうかがった。

田舎暮らしはノミニケーションから

時支所で職員と会話する伊藤さん

 

上石津は大垣市の中で、唯一公民館が存続しているエリアだ。公民館長はたんに公民館講座の企画や運営をするだけでなく、それぞれが4地区のまちづくりに深く関わっている。

伊藤さんはほぼ毎日のように時支所に顔を出す。職員と談笑する伊藤さんは実に楽しそうだ。柔和な顔に人懐っこい笑みを浮かべ、懐深く包み込むような包容力と安心感が人を引き付けるのだろう。

伊藤さんは公民館長職のほか、「上石津社会福祉協議会」の評議員や「上石津まちづくり協議会」「上石津未来を紡ぐ協議会」などの役員でもあり、「清流の国ぎふ移住定住コンシェルジュ」としても活躍している。

伊藤さんが公民館長として直接まちづくりに携わるようになったのは、今から15年前。上石津町が大垣市に合併する以前の話である。

前任の公民館長さんが「地域の人と付き合いの出来る人を」ということで、後任を探しておられました。田舎での人付き合いは、酒が飲めないとできません。そこで、私に白羽の矢が立ったのです(笑)

当時、伊藤さんは60歳。まだ現役で長浜の会社に勤務しており、5年ほどは仕事をしながら公民館長の職責を果たしていた。地域の責任者からの助言もあり、その間も地域の付き合いは欠かさなかったという。

まちづくりに大切な人間関係

生家の前で

 

伊藤さんは昭和19年生まれ。生家である米屋の建物は、今も「大垣市役所 時支所」のすぐ前に残っている。伊藤さんは、懐かしそうに往時を振り返る。

同級生は47人。当時としては少ない方でした。戦後は進駐軍が入ってきてみんなにチョコレートを配り、それが欲しくてついて歩いたこともあります。時は江州街道と伊勢街道の分岐点であり、昔から人の往来が盛んでした。

子どものころには今のバス通り沿いに商店がずらりと立ち並び、「金甚(かなじん)」という芝居小屋があって、時だけではなく、ほかの地域からも多くの人々がやってきてたいそうにぎわっていました。

小中学校を時で過ごした伊藤さんは大垣商業高校に進学。当時は卒業生の1割しか進学できなかったが、教育に熱心だった父の勧めもあり、大垣の知人宅に同級生と一緒に間借りしていた。卒業後は大垣市内に本店のある銀行に就職。長年、営業マンとして活躍してきた。

銀行員時代のいろいろな経験が、地域の世話役としての活動にとても役立っていると思います。ある地域では受け入れてもらうのにとても苦労しましたが、いったん受け入れられたらとても親密になり、飲み友達のような付き合いをさせてもらいました。

営業で一番重要なのは、人間関係。まちづくりも同じだと思います。信頼の構築が第一歩ですね。

東日本大震災がきっかけで移住者を受け入れ

冠橋の上から見た時の象徴・烏帽子岳とともに

 

公民館長として多忙な日々をおくる伊藤さんが、移住者の受け入れに携わるようになったのは、7年ほど前のこと。2011年に起きた東日本大震災で原発の安全性が問われる中、京都にある立命館大学の学生が、小水力発電所再稼働の可能性を求めて時地区にやってきたことからだった。

「時」には約100年前に建設され、1970年まで稼働していた小水力発電所が設備や建物ごと残っているのです。そこで、これをなんとか再稼働できないかと先生や学生たちが現地に来て取り組みを始めました。

ちょうど空き家の持ち主からだれか借り主を探してほしいと頼まれていた伊藤さんは、その空き家を拠点として使ってはどうかと提案し、とんとん拍子に決まったのだった。

立命館大学の取り組みは「時は今だプロジェクト」と名づけられ、時地区の人たちも巻き込んで、「時の家」と命名された拠点で、地域の将来をめぐるワークショップなども開催された。「時の家」は今も立命館の学生たちの上石津での拠点として活用されており、学生たちは時地区の球技大会や運動会、祭りなどにも参加し、地域を盛り上げている。

また、これに先立つこと3年前の2008年。時地区に一組の夫婦が売りに出されていた空き家を購入して移住してきた。現在、「かみいしづ緑の村公園」の前でカフェと地域のアンテナショップを営む雨宮夫妻だ。引っ越してきた二人のために、伊藤さんは宴席を設けた。

若い人に入ってきてもらうのは地域としてもありがたいこと。暖かく迎え入れ、寄り合いの後にまずは一杯! これが基本です(笑)

移住支援とその課題に向き合う

江口夜詩の生家の前で 左の男性は江口夜詩の甥にあたる

 

「時の家」をきっかけに、地域に点在する空き家と移住希望者をつなぐことができたらという想いで、伊藤さんは移住支援を本格的にスタートさせた。移住希望者からヒアリングをし、すみずみまで「時」を案内する。受け入れる側として、移住希望者ならだれでもよいというわけではない。

移住して時地区の住民になったら、行事への参加などやって頂かなければならないこともあります。それも全部説明したうえで納得して頂き、この人ならと思える人であれば、全面的にバックアップします。

小さなコミュニティなので、何か問題があると住民同士の間に亀裂が生じます。地元になじんで近所付き合いのできる人柄であるかどうかは、受け入れるための大きなポイントですね。

住む家だけではなく、時には就職の世話までする。移住者を受け入れるかどうかを決める自治会の会議では、「なにかあればわしが責任を持つ」と言い切る。

移住定住促進を支えるシビックプライド

伊藤さんを駆り立てるもの、それは故郷に対する愛と誇りである。

時は岐阜県の端っこですが、著名な人物を何人か輩出しています。

皇居内の学問所で後の昭和天皇に数学の講義をした阿藤質(すなお)博士、昭和の作曲家で「憧れのハワイ航路」などを作曲した江口夜詩(よし)さん、一昨年、NHKの朝の連続テレビ小説でドラマ化された「とと姉ちゃん」のモデルで「暮しの手帖」の社主であった大橋鎭子さんの父は「時」の出身です。

江口夜詩(本名・江口源吾)の生家は今も時の上(かみ)地区に残り、夜詩の兄の子孫が住んでいる。1年間だけ役場に勤めた後、志を立てて海軍軍楽隊に応募し、音楽への道を歩み始めた夜詩は生涯にわたり4000曲以上を作曲した。

「時」の人たちは今も宴会の最後には江口夜詩の歌を熱唱する。大橋鎭子は何度か父の実家である時を訪れており、「暮らしの手帖」の編集者であった花森安治も取材で滞在している。

伊藤さんは、こうした人々を生んだ「時」の風土をこよなく愛する。昨年からフェイスブックで情報発信も始めた。毎日「ふるさと百景」と題して時の景観を撮影。動植物にも詳しく、冠橋から仰ぎ見る時地区の象徴・烏帽子岳の写真とコメントは伊藤さんならではの感性があふれている。

昨年は、上石津にも初めて地域おこし協力隊が入った。移住・定住の促進が主な仕事だ。伊藤さんは協力隊の勝川清史さんと協力して、今後も移住者の受け入れに力を注ぐ。大好きな故郷が、未来に向けて存続していくことを願って。

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