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ペリーは、なぜ下田に開港したのか?新しい歴史の幕開け!開港5港にまつわるお話


1854年日米和親条約締結とともに長年の鎖国が終わり、同時に下田と箱館の開港がなされました。これで日本も開国!海外との貿易開始!?

いえいえ、そうではありません。実はこの下田と箱館の開港は、貿易港という形ではなく、あくまでも寄港を認め、必要品の供給、一定区域を自由に出歩くことを許可したものなんです。今回はそんな日本の開港についてのお話です。


一番最初に開かれた下田。なぜ下田!?

箱館の開港は分かりますが、どうしてもう一つの港は下田になったのでしょう?実は条約交渉の段階で、アメリカ側(ペリーさんです)はなんと一気に5港の開港を日本側へ要求したそうです。その中にはペリーが来航した浦賀も入っていました。まずはこの写真を見てください。

はい、東京湾の写真です。東京湾はどこからどこまでか?というと、房総半島と三浦半島を結ぶ線の北側で、南側は浦賀水道と呼ばれているそうです。

この浦賀水道の港をペリーさんは要求してきた訳です。少し入れば将軍のお膝元である江戸!初めに言われた時にはきっと冷や汗ものだったでしょう。

これは同意できない、ということで江戸から近くもなく、それでいて遠くもなく、、、あ!下田!ということで幕府からは下田港を強く推薦。(もちろん、地理的なものだけではなく、歴史的に重要な役割を果たしてきた港でもあります。)そして更に幕府は頑張って、5港を2港にすることもペリーに同意させました。

この下田港、4年後の日米修好通商条約締結時に「神奈川港を開く半年後には下田港を閉鎖する」ということが決まり、後に閉鎖されました。



さあ、貿易の始まりだ!開港5港

日米修好通商条約によって開かれることが決まった港は箱館、神奈川(横浜)、新潟、兵庫(神戸)、長崎の5港でした。実はこの5港、一気に開港されたわけではありませんでした。

箱館、長崎、神奈川(横浜)は1859年に揃って開港されますが、兵庫(神戸)の開港はそれから9年後、新潟に至っては10年後の開港となります。

開港がずれこんだ、神戸港、新潟港!?

新潟と兵庫の開港がずれこんだ理由、それは歴史的な背景が大きく関わっています。ご存知の通り、ペリー来日から激動の幕末期に入っているこの時代、幕府幹部の暗殺なども次々と起こっていました。外交的な混乱などもあった為、幕府は開港を遅らせてほしいという嘆願書を各国へ送っていたようです。

当時の写真たち

幕末期の港の写真を集めてみました。建物がないこともあり、空がひろ〜〜〜〜いですね。

yokohama

横浜港(画像出典: )厚木市 ベアト写真集

新潟、、、すみません。見つけることかなわず(汗)。開港して様々なものが流通してくる日本。当時の流行とかそういったものを調べるのも楽しそうです。

学びのまとめ:まずは、開港(スタート)する!事が大事

当時の日本の風潮から考えると開港することは、非常に難しかったと思います
それにもかかわらず、形はどうであれ、開港に漕ぎ付けたことは、現在の文化にも大きな影響を与えていることでしょう。

何事も形式にこだわりすぎるのではなく、帳尻を合わせながら、まずやってみるって事が大事なんですね。



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