君は自分の戒めをもっているか!? 古賀穀堂「自警」に学ぶ、己を成長させる術

20120828 古賀穀堂(画像出典: 佐賀県立図書館ブログ)

「佐賀の七賢人」として名を残す第10代肥前(佐賀)藩主の鍋島直正。

時代の流れを敏感に感じとり改革を進める彼の傍らには教育係として彼を支え続けた古賀穀堂(こがこくどう)の姿がありました。

彼の生い立ちと彼が残した言葉をまとめてみました。

古賀穀堂の父は有名な儒学者。穀堂はエリート!?

穀堂の父は佐賀藩8代藩主・鍋島治茂につかえ、藩校「弘道館」の教授として教鞭をとりました。

47歳の時には昌平坂学問所(幕府直轄の教育機関)の儒官として大抜擢されます。彼は「寛政の三博士」と呼ばれた有名な儒学者でした。昌平坂学問所勤めとなった際、穀堂の父は三男を連れて江戸へと旅立ちます。

この時、長男である穀堂は、というと…。

家を継ぐために佐賀に残り、老父母の面倒を看ることとなりました。穀堂20歳の時です。しかし翌年、祖父が亡くなり、次いで2年後には祖母も亡くなります。

祖父が亡くなり、喪を終えた穀堂は父と弟を追って江戸へ遊学します。

7年程江戸で過ごした後に佐賀へ戻り、28歳の時には藩校「弘道館」の教授に任命されました。(彼の父は教授任命が31歳だったので父よりも早いですね!エリート街道まっしぐらです。)

4年で弘道館教授の身を追われる

結果から言うと、穀堂は4年で弘道館教授の身を追われてしまいます。そう左遷です。

穀堂は、藩主に対して意見書「学政管見」(がくせいかんけん)を提出しています。

これは学問によって藩を治めるべきとして、佐賀藩における人材育成、教育促進、儒学以外の医学や蘭学の必要性、といった大変画期的な内容ではありましたが当時の体制を批判する部分も当然あり…。藩主としては面白くなかったようです。(どこの社会にもありますよね、うん。)

左遷先となったのが6歳になった直正のもとで、以後は直正の教育係としてつかえることとなりました。

江戸にある佐賀藩邸勤めとなった穀堂は、直正はもちろんのこと側近の藩士達への教育にも熱心に励みます。これが後に10代藩主となる直正にも根付いていくんですね。

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