幕末の志士ー鍋島直正の功績まとめ

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(画像出典:Wikipedia )鍋島直正

「薩長土肥」、これは明治新政府軍において主力となった薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩(佐賀藩)を指した言葉です。幕末の攘夷活動において目覚ましい活躍をとげたのは志士だけではありません。忘れてならない藩主の存在。薩摩からは島津斉彬、長州からは毛利敬親、土佐からは山内容堂、それぞれ歴史の教科書でも名前を見ることがよくありますが…あれ?肥前の藩主は???ということで肥前佐賀藩10代目藩主、鍋島直正(なべしまなおまさ)についてまとめてみました。

若い藩主を襲った屈辱

直正は父が隠居したことを受け、17歳で藩主となります。江戸の藩邸で生まれた直正は佐賀に向け出発。しかし、行列が品川まで来たところで行列は進行を停止せざるをえなくなります。これは、江戸の佐賀藩邸に貸付のある商人たちが押し寄せた為です。当時の佐賀藩は長崎警備の強化や江戸藩邸の費用によって財政が破綻寸前であり、直正が出ばなを挫かれる悔しい経験をしたとともに、佐賀藩の貧窮した財政を身にもって知った事件となったそうです。

佐賀城二の丸の全焼をきっかけに躍進!

しばらくは江戸にいた前藩主とその取り巻きらの顔をうかがいながらの藩政でしたが、藩の中枢であった佐賀城二の丸が焼失したのを機に直正は実権を握り、次々と藩政改革を行います。

主な改革は、江戸藩邸経費の大幅削減、参勤交代規模の縮小と経費削減、身分かかわらず有能な人材を採用、お茶や石炭など殖産興業を促進し増収を図る、などです。経費削減のため、藩の役人1/3にあたる420人を解雇したと言われています。

若い直正が藩政改革を押し進めることができたのには直正の教育係・古賀穀堂(こがこくどう)の存在もありました。彼は佐賀藩の学を担った人物で、直正の思想形成に大きく影響しています。

江藤新平、大隈重信を生んだ佐賀藩校弘道館

直正は教育改革として藩校である弘道館(こうどうかん)を移転、拡張します。藩士の子弟全員に義務教育として教育をいきわたらせました。また当時は当たり前であった世襲制の役職も廃止、藩校で育った有能な人材を抜擢していきます。この弘道館が輩出し、後に佐賀の七賢と呼ばれるのが江藤新平と大隈重信です。

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(画像出典:Wikipedia)江藤新平

近代司法制度の基礎をつくった初代司法卿。

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(画像出典:Wikipedia)藩士時代の大隈重信

第8代、17代内閣総理大臣。日本で初の政党内閣を組織した。早稲田大学創設者。

わが子で天然痘ワクチンを試験!?

当時、不治の病として恐れられていた天然痘。直正は佐賀藩内で大流行していた天然痘のワクチンをオランダからとりよせます。そして佐賀城内で当時4歳だった息子の淳一郎(後の11代藩主・直大(なおひろ))に接種させました。また大阪の緒方洪庵にもこれを分け与え、以後ワクチン接種が大阪や江戸にも伝わり全国的に普及、天然痘の根絶を導いたそうです。

全国初!医師免許発行制度の導入

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(画像出典: 佐賀県医療センター好生館)

1834年、直正は医学館を創設します。1851年には全国に先駆けて医師免許発行制度を導入し、佐賀藩を時代の最先端へと導きました。この医学館は後に直正により「好生館(こうせいかん)」と名付けられ、その歴史と精神は180年以上たった今でも受け継がれ、現代は佐賀県医療センター好生館として残っています。

戊辰戦争でも見せた、佐賀藩のすごい軍事力

直正は29歳の時にはオランダ船に乗船しており、(これはペリーが来る9年前!)、早い段階から西洋の軍事技術の導入が必要であると実感していました。それから直正は佐賀藩の軍事力西洋化に着々と取り組みます。

まずは当時日本でまだ実用化もされていなかった反射炉の建設に着手、独自に研究を重ね、鋳造大砲の製作を成功させます。そして今度は海岸線の防衛対策として島と島の間200mを埋め立てて陸続きにし、鉄の大砲を備える計画を行いました。

更には自分たちだけの力で蒸気船と蒸気機関車のひな形まで作っています!そんな佐賀藩のつくった大砲は戊辰戦争でも大活躍。佐賀の組織化された軍事力は大きな威力を発揮しました。

 

 

直正は48歳で隠居し、その10年後藩邸にて亡くなります。藩の改革とともに来る未来へ備え、軍事力の強化へと力を注いだ佐賀藩。直正は、満州開拓やオーストラリアでの鉱山開発を提言するなど、以後50年後に待ち受ける外交、食料、資源における問題を見通していたとも言われています。

 

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